“物”が“物語”になるとき その一例が、歴史に「法則」がある、とするマルクス主義の歴史学ですが、結局のところ、それが破綻したことは、ご承知の通りです。つまり、世の中を知るための方法として、「科学の知」は大切だが、「知」はそれだけではない。
もう一つある。それが「神話の知」なのです。
たとえば、皆さんの子どものときのアルバムがあるでしょう。それは、他人から見たら“ただの物”です。
けれど、皆さんが見たら、一枚の写真からさえ、さまざまな「思い出」が「語られる」でしょう。御両親からも、さまざまな「思い出」が「語られる」かもしれない。
「物」は、それだけでは決して「物語」にはなりませんが、ある個人的な体験が「物」を通して「語られる」ことによって、「物語」になるのです。「物」として見れば、九十九人にとっては、古くて汚い写真の一枚でも、あなたという一人にとっては、かけがえのない宝物になるわけです。
その価値は「物」自体にあるわけではない。それに関する、あなたの「心」のありようによって、「価値あるもの」ともなり、「価値なきもの」ともなるのです。とすれば、その価値が“高い”とか“低い”とか、それはもう「科学の知」だけでは、「測定不可能」なことですよね。
さて、そういう「物語」が昇華して、「物語」の域を超えるときがあります。それは、個別的でありながら、普遍的なものになるのです。
個人の心が、民族の過去と現在をつらぬく普遍性をもったなにかと共鳴するのです。こうして「神話」が誕生します。
ですから、一つの民族が生み育てた「神話」は、その民族にとってのみならず、世界の宝なのです。ギリシア、ローマ、ユダヤ、北欧、ケルトなど、その他の世界各地の「神話」は、その民族の「心のかたち」を、さらには、人の「心のかたち」をあらわしたものとして、二十世紀にはいってから、あらためて大切にされるようになっています。
たとえば、映画の「スターウォーズ」は、神話を素材にして作られています。あれは、神話学でいう「英雄体験」の物語でしょう。
今も昔も、特に男性は「英雄体験」を経て、一人前の男になる、といわれていますが、少年が男になるというのは、じつに大変なことなのです。そこでは、何よりも「知恵」と「勇気」が試されるのですから・・・・・・。
わが国のスサノヲの命の話も、少年が男になるという「英雄体験」を語ったものとして読むことができます。泣いてばかりいた少年が、「死と再生」を経て、ヤマタノオロチを退治し、クシナダ姫を救う英雄をなる・・・・・・。
まさに「英雄体験」の神話ですね。
古くて汚い一枚の写真でも、それがその人を支えている・・・。
そういうことがあるように、じつは人間は、今も「神話」によって、かろうじて、人間らしい世界を維持しているのかもしれません。
(つづく)