明治維新を拓いた孝明天皇の祈り (「第21回「日本の誇り」歴史体験セミナー報告集」 ・平成18年11月10日)
全国の神々を総動員するかのような安政元年の祈り 幕末期、頻々として外国船が押し寄せ、日米和親条約が締結された安政元年(1854)の頃は、実は政治家から庶民に至るまで殆どが「現状肯定派」でした。しかし、孝明天皇のご意志ははっきりと「攘夷」でした。
安政元年はペリーが再度来航し、日米和親条約が結ばれた年です。この年、天皇はひたすら神々に攘夷の祈りを捧げられます。
この年の天皇の祈りはことに凄まじく、伊勢神宮をはじめとする畿内の二十二社、畿外の二十一社への祈りが、二月、五月、九月と繰り返されます。加えるに四月には日光東照宮へ、十月には賀茂神社への祈りが行なわれ、さながら全国の神を総動員するといった感さえあります。
その祝詞の一節には「夷類退帆降伏、国家安全(外国人たちが船の帆を翻して帰り、日本の国が平和になりますように)」と書かれています。しかし、そのような天皇の祈りに反し、日本は欧米主導の通商条約締結へと引きずられていきます。
望んでもいない条約を脅迫的な態度で押し付けてくるアメリカ等の列強国、確かにそれが時代の世界の大勢であり、それに素直に従うのが合理的な発想でしょう。
しかし、外国に筋を通すことを最初から放棄し曖昧ないわゆる「現実的対応」に終始していれば国の独立は守れません。おそらく孝明天皇は、その場しのぎの「現実的対応」に引きずられて開国すれば、必ず国の独立精神は崩れていくとお考えになったのではないでしょうか。
それは結果としての開国か…鎖国か…が、問題ではありません。最初から強いものに妥協する癖がつく、そういう癖のついた国では早晩、亡国の憂き目にあう。外国から「島を寄越せ」と言われたら、「島の一つで戦争が避けられるのなら」と流されるようになる。これこそ植民地化への道でしょう。これは天皇のみならず、幕末の心ある人によって最も憂慮すべきことだったのです。
国の体面・意地が保たれるかどうかに、当時の政争の大きな争点があるのです。
日米和親条約締結から維新への道
日米和親条約締結の頃は世間もそれほど反対はおこりませんでしたが、日米修好通商条約が外国の言いなりになって締結されそうになると、今度は世論も黙ってはいませんでした。諸大名にも異論が出始めました。
そこで幕府は事前に朝廷の許可をとりつけ、諸大名の異論を封じ込めようとします。安政五年(1858)、幕府は老中の堀田正睦を京都に派遣し、説得工作を開始します。
堀田は「もし通商条約を拒否すれば外国と戦争になり、日本は負けますがそれでいいんですか」と脅迫めいた説得を行い、強硬派の公家たちは次々とそれに屈します。関白をはじめ、朝廷の上層部はみな、幕府の意見は「現実的対応」であるから勅許(天皇のお許し)を出すべきであると考えるに到ります。
ところが、最後の最後まで「ノー」といい続けた方がいた。それが孝明天皇です。
この頃、天皇は左大臣近衛忠弘に「戦争になったら勝てないのかどうか、親戚の大名に調べさせてほしい」という依頼までされています。観念論で攘夷を主張されたのではなく、現実的にどこまで日本の体面・意地を守れるか、それを必死で模索されていたのです。
一つ判断を誤れば、日本は滅びるかもしれない。しかし、安易な妥協を続ければ、日本は独立精神を失い植民地化されてしまうだろう。
これほどのご苦悩は、天皇のお子様の明治天皇、そのお孫様の昭和天皇に匹敵するものであったろう、と思います。
かくして天皇は朝廷で孤立状態におかれます。四面楚歌で上層の公家たちに押し切られそうになったその時、強力な応援団が現れました。安政五年三月十五日、八十八人の中級・下級の公家たちが上層部に叛旗を翻し、御所へ押しかけて幕府への回答文書の修正を迫ったのです。
ついにその五日後の三月二十日、朝廷は幕府へ正式な回答文書を堀田老中に渡します。条約締結の勅許については、拒否されました。
ここに天皇の「攘夷」のご意志は、公のものとなります。堀田は「これでは戦争になります」と脅しをかけたようですが、それに対して天皇は「彼より異変に及び候節は、是非無き儀と思し召され候」-つまり、これは戦争も辞さぬというご覚悟の表明です。
ここに、対米屈従派の幕府、自主外交派の天皇というコントラストが見事に浮き彫りになったのです。
ではなぜ、四面楚歌になりながら、この毅然としたご姿勢を貫けたのでしょうか。それは「御一人の祈り」であろうと思います。
「攘夷」の意思を明確にされた三ヵ月後、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社への勅使に親筆の文書を持たせて祈願させています。そこには、このような一節がございます。
「生涯、聖跡を汚さず、道を行い、美名を後世に掲げたき存念、微力、これに及ばざるところ、神助を願ふの事」-つまり、孝明天皇の判断基準は、ご先祖の天皇様の心霊から見て、自分は今何を為すべきかというものでした。
このような発想は「現実的対応」に終始する政治家からは決して出てきません。日々の深い祈りよって、こうした毅然とした判断が導かれたものであります。更にこのこの祈願文には、「不忠者には神罰を下してほしい」というくだりもある、それほど凄まじい気概を、お持ちの天皇であらせられたことが分かります。
しかし、六月二十七日、天皇の堅いご決意は踏みにじられます。幕府から「もう日米修好通商条約に調印しました」との返答が来たのです。天皇はそれを聞かれて激怒され、関白の頭を扇で叩かれたそうです。
その二ヵ月後、朝廷の島田左近は、井伊家の部下の長野義言に送った手紙に、その頃の朝廷の模様を「まことに狂気のごとく・・・死にもの狂いのはなはだしき」と書いています。
当時、死にもの狂いになっていたのは志士だけではありません。天皇や公家たちが国家の為に、命がけで信念を貫こうとしたのです。私は、思います。
いつの時代も、時代を変えていくのは、したり顔の「現実的対応」に終始する人ではない。「死にもの狂い」の人がいて、初めて時代は少しずつ動くのです。
「政治的求心力」というのは、物陰に隠れて指示を出すようなリーダーからは生まれません。特に困難な時代であれば、御自らが困難の矢面に立つリーダーにのみ台風の目のような求心力が生まれます。
その天皇の「死に物狂い」の祈りが世の中に知れ渡り、かくして孝明天皇は、全国の国を憂うる志士たちのエネルギーを一身に集める日本の実質上のリーダーとなっていかれるのです。ここに、吉田松陰をはじめとする全国の志士たちの命がけの戦いの火蓋がきって落とされ、維新への歴史が動いていった…ということを、私たちは忘れてはならないと思います。 (文責 編集部)