東京大学教授 菅野覚明
( 「神社新報」・ 平成18年1月30日)
本書は、幕末思想史の実証的研究者であり、また現実の教育・道徳問題に対する実践的な発言者でもある松浦氏の、いわば自省録とでも位置づけられるべき著作である。
現実の政治的・思想的問題に対する積極的な発言は、専ら「理」を掲げ、「理」を通すことをその基本戦略とする。「理」である以上、それらはどの立場からするものであれ、いづれも冷静かつ透明なものであるべきはずだ。しかし言論世界の実態は、必ずしも麗しい道理の闘争に終始している訳ではない。明瞭透明な「理」の背後から、あるいはうさん臭い、あるいは醜い、さまざまな臭いが漏れてくるものなのである。本能的に醜いものを嫌う文学者、芸術家が政治的なものを嫌悪する理由は、専らその辺りにある。
松浦氏の稀有な美質は、思想的論争に主体的に関わりながらも、その手の臭気が一切漂ってこないという所にある。
幕末の儒者佐藤一斎は、こんなことを述べている。
「理到るの言は、人服せざるを得ず。然るに、その言に、激する所あれば即ち服せず。強ふる所あれば即ち服せず。 挟む所あれば即ち服せず。便ずる所あれば即ち服せず。」 (「言志録」193)
必要以上の過激さ、押し付けがましさ、裏に含むたくらみ、便乗する勢いといったものをまとわりつかせた言論は、たとえ理にかなっていても人が服することは無いというのであり、それらはまた、松浦氏の言葉が持たない一切でもある。なぜそのようなことが可能なのか。一斎は、上の文に続けて、「理到りて而も人服せざれば、君子必ず自ら反みる」という。松浦氏はまさに、この「自ら反みる」営みを怠っていないのである。
それはたとえば、巣立っていった教え子たちへの祝福の言葉が、そのまま彼女らに対する感謝へと転化していく、一瞬の反転の中で確かめられる(思いでの乙女子たちへ」)。あるいはまた、時に過激とも受けとめられかねない己れの言動を、「酔狂」ととらえ直し、そこに思いがけずも自身の父の存在を見いだす。そういう瞬間のイメージのてざわりの確認としてなされる(「酔狂」)。本書を「自省録」と呼ぶ理由は、その辺りにある。
白昼の熱い行為者。それは氏の表向きの顔である。(「私の”虚像”について」はその意味で、まことに秀逸な氏の自画像である)。だが、氏の本当の全体像は、むしろ白昼の熱をはどよく冷ます「夜」との対話を抜きにはとらえられない。氏の自省録が「夜の神々」と題されたのも、まことにむべなるかな、である。
[ 2100円 慧文社刊 ]