私たち一人ひとりの心は、「神話」という民族の「根っこ」につながっています。ですから、ある民族の「神話」は、その民族にとっての“宝物”です。
けれどもそれは、その民族のみの"宝物”なのではありません。世界の人々にとっても、また“宝物”なのです。
なぜなら、民族の「根っこ」を、さらに深くたどっていけば、どうなるでしょう。きっと人類の「根っこ」にも、たどりつくにちがいありません。
世界には、さまざまな神話が残っています。ギリシア、ローマの神括は、とくに有名です。
そのほかにも、ユダヤ神話、北欧神話、ケルト神話などもよく知られていますが、それ以外にも、世界には、さまざまな神話が残っています。それらは、いずれも、その民族の「心のかたち」をあらわしたもので、さらに人類の「心のかたち」にもつながるものです。
それにもかかわらず、全世界で“近代化”がすすみ、とくに日本では「唯物主義」が広がって、神話が、ずいぶん軽くあつかわれる時代がつづきました。けれども、そういう考え方は、二十世紀にはいって、世界中で反省されるようになっています。
たとえば、フランスのジョルジュ・デュメジル(1898ー1986)という大学者は、
「神話をもたぬ民族がもしあれば、それはそれはすでに生命をなくした民族だというべきであろう」
とまで言っています。
これは“神話がなければ、人間は文化を維持することができない”という、じつに重い言葉です。
そして、近ごろになると、もう・・・世界各地で、神話が(正確に言うと、神話的なものが…)花盛りになっています。
「えっ…今?、どこで?」と、驚かれる方もいるかもしれませんが、たとえば、映画な漫画やゲームの世界は、もう「神話の要素だらけ…」といってもいいくらいなのです。
一例をあげると、映画の「スターウォーズ」がそうでしょう。この映画は昭和五十年代から今日まで、もう三十年以上にもわたって、つくりつづけられた映画ですが、その映画監督のジョージ・ルーカスはジョセフ・キャンベルという神話学者のアドバイスをもとにして、映画の構想を練っています。
この映画のストーリーは、神話学でいう「英雄体験」そのものです。「ふつうの少年」が不思議な運命にみちびかれて、さまざまな困難に出会うものの、知恵と勇気でそれらを乗り越え、ついには「怪物」を退治し、“親ばなれ”をなしとげ、美しい「姫」をすくい、「英雄」としてたたえられる・・・というのは、全世界に見られる神話の基本的なパターンです。
これは、大人になるための「通過儀礼( イニシエーション)」を象徴するものといっていいでしょう。子供たちに、さまざまな試練を経験させ、そのあと「大人」として認める…という習慣が、昔から日本にもあります。
その、一つが「伊勢参宮」であった…ということは、前にもお話ししました。
いずれにしても、「男の子」が「男」になり、「女の子」が「女」になる…というのは、じつに大変な事業なのです。
そういえば・・・、皆さんは、まさに「英雄体験」そのものの話が、わが国の「神代の物語」に残っている、ということをごぞんじでしょうか。
スサノヲの神の物語です。
スサノヲの神はお母さん( イザナミの命)を早くに亡くし、ずっと泣いてばかりいたため、とうとう天上の世界から追放されます。いわば「死」の体験をするのですが、そのあと、「ヤマタのオロチ」を退治し、「クシナダ姫」を救う「英雄」として、みごとに「再生」するのです。
戦後の子供たちは、ちゃんとした「英雄体験」をさせてもらえず、そのため、ほんとうの「通過儀礼」を体験しないまま、かたちだけの「成人」となっていることが、少なくありません。
いい歳をして“幼稚”な日本人が増えているのは、たぶんそんなところにも、一つの原因があるのでしょう。(つづく)