(『解脱』平成21年2月号)
〝神霊の主軸〟がある街
遷宮に向けて、少し活気が出てきたものの、今の伊勢市は一見すると、どこにでもあるような地方都市です。そして、残念ながら、少子高齢化の波は、今の伊勢市にも、容赦なく押し寄せてきています。 十数年ほど前までは、はなやかだった駅前も、今は閑散としていますし、にぎやかだっ商店街も、今は〝シャッター通り〟と化してしまいました。
期待に心おどらせて、はじめて伊勢市駅や宇治山田駅を降りられた方のなかには、あまりにも淋しげな町のたたずまいに、驚かれる方もいらっしゃる…かもしれません。
けれども、伊勢というところは、太古より現在にいたるまで日本という国の、あるいは日本人という民族の〝主軸〟がある街なのです。その〝主軸〟とは、もちろん、政治的なものでも経済的なものでもありません。それは目には見えないものの〝主軸〟です。
近代の科学的な知識のみを、〝知性〟と信じている方には、笑われてしまうかもしれませんが、私はそれを、こう呼んでいます。
〝神霊の主軸〟・・・と。
わが国土に、目には見えない〝尊きもの〟のネットワークが、時空を超えて、網の目のように張り巡らされている…とすると、その巨大なネットワークの中心に伊勢が位置する…と、私には感じられてならないのです。
その証拠に、遠い昔から日本人は、たとえどんなに遠い所で暮らしていようと、「一生に一度は、どうしても伊勢の神宮に参拝したい」と、願ってやみませんでした。その伊勢参宮に対する惰熱に満ちた国民の歴史を、かいま見るだけでも、もしかしたら、曰本人として生まれた者には、その心の中に、すべて何らかの〝聖なるプログラム〟が内蔵されているのではないか…とさえ、思われてきます。
江戸時代の庶民の心を伝えた言葉に、こういうものがあります。
「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい。せめて一生に一度でも」。
また、そのころの辞典には、「イセミチ」という言葉があって、こういう説明がされています。
「遠いことを意味する言葉」。
はたそうとしても、なかなかはたせない伊勢参宮…。それに、まるで〝恋こがれて〟いるかのような、当時の庶民の心がうかがえて、なにやら切ないような思いが、こみあげてきます。
たとえぱ、伊勢から遠く離れた現在の長崎県の対馬にも、江戸時代には、ほとんどの村に「伊勢講」がありました。
「伊勢講」とは、みんなでお金を積みたてて、順番に伊勢参宮に行けるようにする…いわば「互助組合」のようなものです。船で大阪まで行き、大坂から伊勢まで歩きます。帰りも大阪まで歩いて、それから船に乗る…というのですから、たいへんな旅です。
江戸時代までは、若者たちに高い山への山登りなどの試練を経験させ、そのあと「大人」として認める、という地方がたくさんありました。そのような試練のことを、今では総じて「通過儀礼」と呼んでいますが、伊勢への旅を「通過儀礼」にしていた地方、も少なくなかったのです。
長い伊勢参宮の旅を経験して、はじめて「大人」として認められる…というわけですが、ということ…、つまり伊勢参宮によってはじめて「一人前の日本人」として認められる、という感覚があったのでしょう。
そのような伊勢参宮という「通過儀礼」は、かたちをかえつつ、昭和の修学旅行までつづきます。
けれども、唯物主義的な〝戦後教育〟が浸透するにつれ、伊勢神宮を訪れる学校は、激減してしまいました。昭和五十年度は約五十四万人であった修学旅行生は、平成十七年度は約四万人です。三十年間で、なんと十四分の一にまで減ってしまいます。
もしも、このまま〝悪しき戦後教育〟がつづいたら…と考えると、私は、心配でたまりません。 (つづく)