(『祖国と青年』平成25年1月号)
三島事件の時代ー核・尖閣・沖縄
「六十年安保」によって岸信介が退陣した後、首相の座に座ったのが親中派の池田勇人です。
池田勇人首相の時の外務大臣(後の田中角栄内閣でも外務大臣)が、大平正芳氏(後の首相)です。
大平正芳氏がシナの工作員・廖承(りょうしょう)志(し)という人物と密接な関係であったことは、これも中西氏が明らかにしています。(『明日への選択』平成二十四年十一月号)。
田中内閣の時の、いかにも前のめりの、いわゆる「日中国交正常化」の背後には、外務大臣の大平正芳氏の影がちらついているのです。
池田勇人氏の派閥を「宏池(こうち)会(かい)」といいますが、その「宏池会」の初代事務局長は、警視庁公安部にコードネームをつけられたソ連のスパイでした。
その「宏池会」から、後に河野洋平氏、加藤紘一氏などの政治家がでてくるわけです。
そこから、日本はひたすら「主権喪失路線」を走っていきます。以後、「憲法改正」、「教育正常化」など、真正保守の政策は「店晒し」にされ続け、経済成長一辺倒の時代が来ます。
その間、水面下で着々と、左翼勢力の“革命工作”は進行していきます。
たとえば、「六〇年安保」から四年後の昭和三十九年、日教組の反対により「全国学力テスト」が廃止されています。日本人を“愚民化”する措置で、これが復活するのは平成十九年の安倍内閣ですから、四十三年もの空白期間があるわけです。
その空白期間が、日本の戦後政治を、ある意味、象徴しています。
「全国学力テスト」が廃止されて六年後の昭和四十五年三月に、「核拡散停止条約」が発効します。これによって、日本は、実質的に核武装への道が閉ざされた、と言えるでしょう。つまり、日本は“自立した国防体制の構築”が不可能になった、ということです。
その八か月後の十一月二十五日、三島先生は陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺されるわけですが、その「檄文」の中に、この条約への批判があることは、御存じの通りです。
「魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停止条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかった。
沖縄返還とは何か_本土の防衛責任とは何か?
アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。
あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるだらう」
そのころの佐藤栄作内閣は、極秘裏に日本の核武装を検討していたようですが、結果的には断念し、それ以後、日本は核武装国が支配する世界秩序の中で、「支配される側」の道を歩まざるを得なくなります。
今日の領土危機で、日本が劣勢に立たされている最大の原因も、大局的に考えれば、日本が核武装を「しない国、できない国」になっている・・・させられているところにある、と私は考えていますが、三島先生は今日の惨状を、すでに四十二年前に予見し、その危機を、まさに「体をぶつけて」警告されているわけです。
引用した檄文の中に、「沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?」という一節もあります。詳しくは語られていませんが、これも今日の尖閣・沖縄の問題を考える上で、きわめて予言的な言葉です。
三島先生は、「正規軍と非正規軍」という一文で、沖縄が返還されても、多くの米軍基地が残るであろうと予言され、もしも沖縄の人民が米軍基地に押しかけ、自衛隊がその間に立たされたら、その時、自衛隊が「やはりアメリカの傭兵だったのではないか、と非難される」のではないか・・・、と憂慮されています。
ですから、その前に「自衛隊を国軍という形にしなければならない」と訴えておられるのですが、今、ようやく自民党は、「政権公約」に「国防軍」の創設を謳うようになりました。
感慨に堪えません。
近ごろ、三島先生の“最後の言葉”が明らかになりました。
「自衛隊を天皇陛下にお返ししなければ、日本の国は滅びます」とおっしゃったあと、自刃されたそうです(『週刊新潮』・平成二十四年十一月二十九日号)。
もしも天皇条項から始まる新しい憲法の中に、「国防軍」が正しく位置付けられれば、法理上、それは“天皇の軍隊”ということになります。三島先生の“最後の言葉”は、ようやく今、現実のものとなりつつあるのです。
昭和四十三年、国連アジア極東委員会(ECAFE)が調査を行い、翌昭和四十四年、尖閣諸島の海底に石油や天然ガスが大量に埋蔵されている、と報告します。
その翌年の昭和四十五年―まさしく三島先生が自決された年ですがー その年末、台湾の新聞などが尖閣諸島の領有権を主張しはじめ、翌昭和四十六年、シナの中共政府が、尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。
さらに翌年の昭和四十七年五月、沖縄が本土に復帰しますが、田中角栄首相は、大平外務大臣に、おそらくそそのかされ…、「国交正常化」を急ぎます。そして鄧小平に踊らされ、尖閣諸島の所属を、いわゆる「棚上げ」にしてしまい、その年の九月に、いわゆる「国交正常化」(「正常化」というのは、中共の立場からの“もの言い”ですが・・・)を、行ってしまいます。
それ以後、日本の固有の領土で、現に日本が実行支配をしているのに、しかし、日本人は立ち入れないという…、じつに卑屈極まりない措置が、政府と外務省によって、とられつづけるわけです。
「三島事件」直後から、日本はまさしく三島先生が予言されたような、危険な路線をたどりはじめます。どのおうな路線か?一言で言えば「主権喪失路線」です。
ここで、その過程を、ざっと思い出してみましょう。
①〔三島先生没後六年〕昭和五十一年…三木武夫のもと、事実上、すべての武器輸出が禁じられる。
②〔没後七年〕 昭和五十二年…ダッカのハイジャック事件で、福田赳夫首相は「日本赤軍」の要求に屈し、日本赤軍六名を解放。十六億円支払う。この年、横田
めぐみさんが拉致されている。
③〔没後十二年〕 昭和五十七年…教科書検定で「侵略・進出、書き換え」の誤報事件が続き、これが「宮沢談話」、「近隣諸国条項」へとつながる。
④〔没後十六年〕 昭和六十一年…中共に屈した中曽根康弘首相が靖國神社参拝を中止。
⑤〔没後二十三年〕 平成五年…虚構の「従軍慰安婦の強制連行」を公認する「河野談話」発表。
➅〔没後二十六年〕 平成八年…自社政権によって「村山談話」
⑦〔没後三十八年〕 平成二十年…「日本は侵略国家であったのか」という一文を発表した自衛隊の田母神航空幕僚長が、即座に更迭される。
⑧〔没後三十九年〕 平成二十一年…民主党政権成立。
以上の流れを簡単にまとめれば、“学問上の主権”を侵されて歴史解釈権を奪われ、“教育上の主権”を侵されて教科書を書き換えさせられ、“信仰上の主権”を侵されて首相の靖國神社参拝ができなくなり、ついには、国民の人生そのものさえ奪われて、多くの人々が拉致され…ということになり、こうして、日本はひたすら、国家としての「自由と独立」を失いつづける道を、突き進んできました。
それが、この四十年の大きな流れであり、その到着駅こそが「民主党政権の成立」だったのです。(つづく)