(『祖国と青年』平成25年1月号)
二 日本を「永久に非武装」にするための「日本国憲法」
今の皇室典範が公布されたのは、「日本国憲法」が施行された昭和二十二年五月三日でした。その「日本国憲法」の「公布」は前年の昭和二十一年十一月三日です。
いうまでもなく、この憲法は皇室典範と同じくGHQがつくり、軍事力にものいわせて、いわば脅迫によって、日本に押し付けたものです。あらためて言うまでもなく、「日本国憲法草案」は、昭和二十一年二月三日から十日間で、二十数人のアメリカ人が、皇居に近い「第一生命ビル」の中で急いで書き上げたものです。
その時の二十数名は、すべてGHQの「民政局」という部門のスタッフでした。その実務責任者がケーディスという人物で、当寺三十九歳です。
それから三十六年後の昭和五十六年、ジャーナリストの古森義久氏が、七十五歳になったケーディスを訪ね、インタビューしたのですが、その時の事が今年(平成二十四年)の新聞に載っていました。
「四時間近く。ケーディス氏が用意した資料を見ながら、その過程を、率直きわまる態度で語れば語るほど、私は日本国憲法作りの異様さに衝撃を受け続けた。なにしろ手続きが、あまりにおおざっぱであり、日本側への対処が、あまりに一方的な押し付けに徹していたからだった。・・・
ケーディス氏によれば、起草は都内の各大学図書館から、他の諸国の憲法内容を集める事から始まり、後にマッカーサー・ノートと呼ばれる黄色の用紙に殴り書きされた天皇の地位や戦争の放棄など、簡単な基本指針だけが手がかりだった。『私自身が書くことになった第九条の目的は、日本を永久に非武装にしておくことでした・・・』」(『産経新聞』平成二十四年五月二日)
ここにみられる通り、「第九条の目的は日本を永久に非武装にしておくこと」の一言に尽きています。この「憲法」によって、日本は、永久に“アメリカのいいなりにならざるをえない国”にさせられてしまったわけです。
しかし、実は「日本国憲法」をつくった人々でさえ、まさか日本が昭和二十七年の独立後もそれをそのまま使いつづけるとは、思っていなかったようです。
「あれは、あまりにもアメリカだけに都合がいいものだから、日本は独立したら、独自の憲法を制定するだろう」というのが、GHQの民政局の人々予想だったようです。
その証拠があります。戦後四十年にあたる昭和六十年、駒沢大学教授の西修氏が、アメリカで何人もの老人たちを訪ねて、聞き取り調査をしていました。「日本国憲法」の草案作成にかかわった老人たちです。
その時、それらの老人たちは全員、西氏の話を聞いて驚いたそうです。
「えっ、まだあの憲法を使っているんですか!」と。
しかし、それから二十七年経った今も、日本は「まだあの憲法を使っている」わけですから、もしもそのご老人たちがご健在なら、驚きを通り越して、呆れ果てると思います。外国の軍隊が、占領中、自分たちの都合のいいように、つまり、日本を「永久に非武装」にするためにつくった憲法を、独立して六十年も経つのにまだ一字も変えていない・・・というのは、“近代世界史の七不思議”の一つではないでしょうか。
そもそも、「自民党」という政党は、「自主憲法制定」を「立党の精神」にして結成された政党だったはずです。その自民党が、長期政権を維持していたのに、なぜ「自主憲法制定」が出来なかったのか。
これは現代史の大きな謎というべきでしょうが、私の考える理由は主に三つあります。
第一は、「周辺諸国の思惑」です。“日本が自立した強い国にならないこと”は、周辺国の全てが望んでいることです。アメリカにとっても、中共にとってもロシアにとっても、朝鮮半島の二か国にとっても、「日本が自立した強い国」にならない方が望ましい・・・。
その点では、冷戦下も今も、彼らの利害は一致しているわけです。
第二に「国内左翼」の思惑です。左翼政党、左翼団体、左翼官僚、大手マスコミなど、国内の全ての左翼勢力の根底にある目的は、日本に「共産革命」を起こすことでした。彼らにとっても、「日本が自立した強い国」にならないことが望ましい。軍事力も警察力も、すべての公権力が弱ければ弱いほど・・・、彼らの言う「革命」は、やりやすくなるからです。
第三は自民党の堕落です。「自主憲法制定」を「立党の精神」にしていた自民党が、その精神をいつ忘れてしまったのかというと、おそらく「六十年安保」の時です。「六十年安保」の騒乱によって、「国内左翼」は、ある意味で「戦後最高の名宰相」といえる岸信介を退陣に追い込み、その後は、池田勇人という、親中派の総理になりました。
一般には、「六十年安保」によって「左翼運動は挫折した」などと言われていますが、それは全く違います。挫折したのは、自民党の「立党の精神」なのであり、「自主憲法制定路線」なのです。
そのことについて、中西輝政氏は次のように書いています。
「『六十年安保』がなければ、日本はとっくに憲法を改正し、国防軍を持ち、本当の意味での独立国家として現状はるかに『均整の取れた国』になっていたはずなのである。
日本の国民の多くは、それまで真っ当な国家の復活を願っていた。…しかし『安保闘争』で、左翼陣営の力を見せ付けられると、保守陣営はすくみ上がってしまった。…
そして、日本の政治に許される活動の範囲、つまり国家としての目標は経済発展しかない、という雰囲気になったのである。今日の日本は、自らの安全を、アメリカにほぼ全面的に依存しなければ一日も生きていけないほど、自立能力のない国になってしまい、現在ついに大きく浮上してきた中国、北朝鮮、そしてロシアの脅威という国家安全保障上の危機にも目を背けるしかない国となってしまった。…『六十年安保』で挫折したのは、左翼勢力ではなく、日本国家であったのである」(『別冊 正論』十五号・平成二十三年)
ちなみに、この時「中国共産党」は「日教組」に指令を出しています。きわめて衝撃的な内容なのでご紹介します。旧陸軍の大将の今村均氏が、昭和四十一年、自衛隊の部内誌に寄せた一文の中に見えるものです。
「昭和三十五年の日米安保条約改正の際、五万といわれる全学連や総評を動かし、わが議会や首相官邸を取り巻き、暫時政治の運行を妨げさせた時、中共の対日工作員である陳宇(ちんう)氏は、わが共産党員である日教組の幹部である赤津益三氏に対し、暗号電報により、六月一日、 『われわれはこの度の諸君の勇敢なる革新運動に大きな敬意を表する。しかし貴国の革新は、民族をして、皇室と神社とより隔離せしめない限り、その実現は至難と思う』というような、指令を打電した」(『修親』・昭和四十一年)
これを読んで、私は思わずゾッとしました。なぜなら、私は平成十五年、『いい加減にしろ日教組』という本を出版していますが、まさに、三重県の、そして全国の日教組は、この時のシナの共産党の指示通りの教育を、今も着々と、日本の若者たち…、子どもたちに施しているからです。
思えば、先に述べた「女系天皇」「女性宮家」などは、推進している本人たちが自覚しているかどうかは別として、結果的に彼らは「民族をして、皇室と神社とより隔離せしめ」ようとする、シナの日本侵略政策の尖兵となっているわけです。
彼らの言動は、シナ共産党の「思うツボ」なのです。(つづく)