(平成23年6月1日 『皇學館学園報』 第32号)
この歳になって、ふりかえってみると、私の「歴史学」についての考え方のもとになっているのは、たぶん小林秀雄という人の、ものの考え方ではないか、と思います。
とくにその「歴史を文学」という講演録は、10代のころから今にいたるまで、なんども読み返してきました。
そのなかで小林は、こう言っています。
「現代の通念により、過去を確かめる事が、何が客観的な態度であろうか。一時代の風潮に埋没し、そこから多く遠い時代を眺める事が、何が歴史家の眼光ですか」(『歴史と文学』)。
これは昭和16年の発言ですから、今(平成23年)から70年も昔のものなのですが、小林が、きびしく批判している歴史学の傾向は、今もあい変らず・・・というよりも、ますます顕著になっているように思われます。
小林が言う「現代の通念により、過去を確かめる」というのは、つまり「現代」という「フィルター」を通して過去を語る・・・という態度をいうのでしょう。
そのような、いわば“歴史まがい”の言説が、戦前から、学界でもマスコミでも教育現場でも、あたかも“ほんとうの歴史”であるかのような“仮面”をつけて、知識人の世界で乱舞してきましたし、今も、同じように乱舞しつづけています。
近代の国民は、わが国の歴史の知識を、おもに小説や読み物、あるいは映画やテレビなどで得てきました。“歴史学者の書いた本”などは、ほとんど読まれていません。
そのため世間には、デタラメな歴史認識も広まっているのでしょう。しかし、考えてみると悪いのは国民ではなく、歴史学者の方ではないか、という気もしています。(おわり)