後奈良天皇のごとく さて、もう一つ、陛下の「戦い」を挙げましょう。御代替わりの「大嘗祭」についてです。
昭和五十四年四月六日、「元号法」が成立した月ですが、おそらくそれで危機感にかられた左翼陣営は、天皇の御代替わりに行われる、天皇によって一世一代の、最も重要な祭りである「大嘗祭」を阻止しようと、しはじめます。
昭和五十四年四月十七日、衆議院内閣委員会で社会党の上田卓三氏は「旧皇室典範に記されているような踐祚、大嘗祭といった儀礼はそのような扱いになるのか」と質問します。
それに対して内閣法制局長官・真田秀夫氏は、なんと、こういう答弁をするのです。
衆議院内閣委員会における内閣法制局長官真田秀夫氏の答弁
「大嘗祭なんというのは、おそらく国事行為としても無理なのじゃないかと思う」
「憲法二十条第三項の規定がございますので、そういう神式のもとにおいて国が大嘗祭という儀式を行うことは、許されないというふうに考えております」
政府、官僚による皇室伝統の蹂躙は、すでに三十年前から強引に進められているのです。私が「戦後という時代は、戦国時代以上に厳しい時代」と書いていることの具体的な意味が、この一事からも十分ご理解いただける思います。
このころから、どうやら陛下は「自分は、大嘗祭を挙行できないかもしれない」という憂いを深くされていったようです。古来、大嘗祭を挙行できない天皇は「半皇」、つまり「半分の天皇」と呼ばれています。
つまり、大嘗祭を挙行していない天皇は、天皇の資格に欠ける、とまでいわれているのが大嘗祭で、大嘗祭というのは、それほど重要な儀式なのです。
それから七年後の昭和六十一年五月二十六日、『読売新聞』に今上陛下のこういうお言葉が掲載されています。
今上陛下(現在の上皇陛下、当時・皇太子)のお言葉
「天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的な立場に立っています。
このことは疫病の流行や飢饉に当たって、民生の安定を記念する嵯峨天皇以来の、天皇の写経の精神や また『朕、民の父母と為りて徳覆うこと能ず。甚だ自ら痛む』という後奈良天皇の写経の奥書などによっても 表されていると思います」(昭和六十一年五月二十六日)
ここに見える第五十二代・嵯峨天皇は、平安時代の漢詩文や書道にすぐれた天皇として知られる方ですが、問題は第百五代・後奈良天皇です。後奈良天皇は戦国時代という、皇室衰微の時代の天皇でいらっしゃいます。
その時代、皇室の経済的な困窮は、相当なものであったと伝えられています。それでも、後奈良天皇は国民が疫病に苦しんでいるのに、何も出来ない自分を責められ、「般若心経」を書写されて、それらを全国各地の寺社に、ひそかに奉納されています。
その「奥書」つまり、書写したあとに書いてある言葉は有名です。現代語訳するとこうなります・
後奈良天皇奉納『般若心経』の奥書(天文九年六月十七日)
今年は天下に疫病がはやり、多くの民が死に瀕しています。私の“民の父母”である天皇という立場にあるにもかかわらず、徳にによって、民をつつみこみ、幸せにすることができておらず、自分で自分のことを責めています。
ですから私は『般若心経』を金字で写し、義堯僧正の手によって醍醐寺三法院に納めます。心からこれが疫病の妙薬になりますよう、祈ってやみません (松浦訳・『宸翰栄華』)
「“民の父母”である天皇という立場にあるにもかかわらず、徳にによって、民をつつみこみ、幸せにすることができておらず」というそのお言葉は、国民の一人として今、それを読む私たちでさえ、まことに恐懼の極みです。このお言葉と、後奈良天皇の行いには、ご歴代の天皇の国民に対する「無償の愛」がつまり、「見返りを求めない愛」が、まことに明瞭に結晶化していると思います。
まことに天皇とは「民の父母」であり、そのご聖徳に、国民はひたすら感激するしかありませんが、大切なのはこの後奈良天皇とは、どういうご生涯を送られた方であったか、ということです。
じつは大嘗祭を行うことができないまま、崩御された天皇だったのです。
ご生前、伊勢神宮に使いを遣わし、大嘗祭を行えないことを詫びていらっしゃいます。なぜ大嘗祭が行えないのか、そのことについて天皇ご自身のお書きになったものが残っていますが、それを見ますと次のような一文が見えます。
公道行われず。聖賢有徳の人なく、下克上の心盛りにして、暴悪の凶賊、所をえたり
(天文十四年八月・後奈良天皇の宸筆宣命)
「世の中に正しい道が行われず、優れた人もおらず、下克上の心が蔓延し、悪くて乱暴な者たちが、ほしいままふるまっている」というような意味です。
こと皇室をめぐる状況から見れば、これは何も戦国時代だけの話ではなく、「戦後」という今の時代にも、そっくりあてはまるのではないでしょうか。 (つづく)