永遠なれ、伊勢神宮 そのような民衆の信仰、その具体的な思いが、「御神宝」…、要するに遷宮のたびにつくり直される神宮の宝物(神様の御道具)にあらわされています。二千数百人の職人が、何年も、全身全霊をかけて約八百種、二千五百点の宝物をつくるのです。
いづれも文化財級のものばかりです。いったい職人さんたちは、どんな気持ちでつくっているのか?
ある宮大工の棟梁は、こう言っています。
「御神殿は神さんに住んでもらうところやから、何もかもお見通しやで、どんな屋根裏も絶対ごまかしがきかん。しかし、誰が褒めてくれんでも、神様が喜んでくださりゃ、本望ですわ」(藤岡信一談)
この棟梁は、明らかに“神の実在”を信じていますね。
おそらくそれゆえに、すぐれた職人たちは、その作品に自分の名前を刻もう、などとは思いません。
“自分が…自分が…”というのは、ある意味、低い次元の話です。職人さんは、そのような低い次元の心で、仕事をしているのではないのです。
そこにあるのは、深い信仰です。それがなければ、その職人さんのような仕事はできません。
また、式年遷宮の根底には、神道の「祓い」の思想があります。
一度死に、生まれ変わって、また生きるのです。
式年遷宮は、その意味で、二十年に一度の国家的な「祓い」であるともいえます。
この「もっとも古いものこそ、もっとも新しい」という思想、「復古」イコール「維新」という思想こそ、神道ならではのものでしょう。
それは、明治維新が王政復古であることと、軌を一つにしています。
ともあれ、「食べる」「着る」「住む」という、これほど世俗的な行為を、これほど神聖なものとして洗練しあげた文化は他にはないでしょう。
私は、これは世界に発信できる、また、しなければならない、きわめて高度な文化である…と考えていますが、その高い価値を、当の日本人のなかで自覚している人が少ないのは、なんとも残念なことです。
しかし、現状は、「世界に発信する」どころではない、かもしれません。現在の神宮には、しだいに“危機”が迫っているのではないか、ということも考えておく必要があります。
「神宮大麻」の頒布数の減少が、その“危機”を象徴しています。平成十六年度の「神宮大麻」の頒布数は九00万六四二七体、全国世帯数に占める「神宮大麻」の頒布世帯率は19.15%です(『神社新報』平成17年3月15日)。
一世帯平均・二人とすれば、この約九00万世帯というのは、約一千八百万ほどで、人口の十八%ほどになります。江戸時代、外宮だけで、人口の七割を押さえていたところからすれば、その比率は、三分の一以下になっている、と推測してよいでしょう。
これから日本の人口は、減少していきますから、この減り方は、もしかしたら、まだ「序の口」なのかもしれません。修学旅行で伊勢を訪れる学校の数も激減しており、「神宮」にとっては、すでに厳しい時代が、はじまっています。
それらのすべての原因も、私は、やはり「戦後教育」にあると思っています。神道、神話、神宮、天皇…、それらすべてに対する否定的なメッセージが、日教組教育によって社会全体で拡大再生産されつづけ、もはや国民の思想状況は、取り返しのつかない地点に達しつつあるように思われてなりません。
いわば「失われた六十年」です。しかし、それを悔やんでばかりいても、しかたがないでしょう。ならば、どうするか?
私たちの力で、これから取り戻すしかありません。
「自分は国のために何ができるのか」。そのことを若く志のある皆さんには、今から深く考えておいてもらいたいと思います。
『論語』に、「子曰く、人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず」とあります。
まず、よい思想があって、自動的に人間に広まる…のではなく、逆に、まず心ある人間があって、その力で、よい思想が広まるのです。
いくら立派なことを知っていても、それだけでは意味がありません。
一人ひとりの人が、勇気をもって正しいことを言い、正しいことを行うこと…、そこから「道」が広まる。
『論語』でいっているのは、そういうことだと思います。
ですから、まずは自分が正しいことを言い、正しいことを行う…、そこから、はじめましょう。
皆さんが、本気で日本を愛しているのならば、その思いは、必ず、まわりの人々に伝わります。
そういう若者が、一人でも二人でも、あらわれること…、日本の復活は、そこからはじまるのです。 (おわり)