天皇陛下のさまざまな〝いのり〟(平成23年7月)
いったい天皇陛下は、いつ・・・どのような「祈り」を、どれくらい、神々にささげていらっしゃるのでしょうか?一年のはじめから、見ていきましょう。
まず元旦の午前五時から「四方拝」をなさいます。そのあと、「歳旦祭」になるのですが、この時は、「宮中三殿」のすべてに、おでましになるそうです。これは早朝のお祭りですが、十一月二十三日の「新嘗祭」は、深夜のお祭りで終わるのほ午前一時ごろになります。
どらちも、寒いなかのお祭りです。
お祭りにも、いろいろな区別があります。「新嘗祭」は、「大祭」と呼ばれるお祭りです。「大祭」では、天皇おんみずから、お祭りを執り行われます。その時、天皇陛下は、ご拝礼の前に、おんみずから「御告文」と呼ばれる言葉を奏上されるそうです。他にも、「小祭」とよばれるお祭りがあります。これは掌典長が執り行い、天皇が拝礼されるお祭りです。
そのほか、「旬祭」と呼ばれるお祭りもあります。これは、毎月、一日、十一日、二十一日に行われるものです。天皇おんみずからが拝礼されることもありますし、侍従が代理で拝礼することもあります。また、四代前までのご先祖の天皇のご命日に拝礼する「例祭」と呼ばれるものもあります。
「四代前」というと、具体的には「昭和天皇祭」(一月七日)、「大正天皇祭」(十二月二十五日)、「明治天皇祭」(七月三十日)、「孝明天皇祭」(一月三十日)です。このうち、「昭和天皇祭」は「大祭」で、あとは「小祭」です。
また、前皇后のご命日の「例祭」もあります。香淳皇后の「例祭」は、六月十六日です。さらに、ご歴代天皇の百年目のご命日の当日には、「式年祭」というお祭りもあります。その上、外国をご訪問される前の「奉告祭」や、お帰りになったことを奉告されるお祭りなど、臨時のお祭りが行われることも少なくありません。
これらのすべてをあわせると、陛下は毎朝のお祈り以外にも「宮中三殿」で、平均して(むろん、年によって回数はちがってきますが)、一年に六十回をこえるお祭りを行われていることになります。
そのうち陛下が、おんみずからおでましになるお祭りだけでも、一年で、三十回以上はあるでしよう。心身ともに〝激務〟というほかありません。たとえば、 先ほどあげた「新嘗祭」は、十一月二十三日の深夜まで行われる長時間のお祭りですが、この時は、寒い季節であるにもかかわらず、陛下のおそばでご奉仕する人々も、汗だくになるそうです。
たとえば、私たちも、〝偉い人〟の前では緊張して汗が出ることがあります。しかし、「神さま」というのは、いわばそれ以上はないほど〝偉いご存在〟なのです。ですから、その〝ご存在〟にご奉仕するお祭りで、お仕えする人々の心身が、極限にまで緊張するのは、ある意味、当然のことでしょう。
陛下はおそらくお祭りのたびに、そのような心身の緊張を感じられつつ、神々にご奉仕されているのではないかと拝察します。
ところで、皆さんは、その陛下の「ご拝礼」のお姿を、今、目の当たりに拝見してできることにお気づきでしょうか。
両陛下は、大震災の被災地へのご訪問をつづけられていますが、その時、両陛下は、しばしば被災地と、そのむこうの海へ向かって「ご拝礼」され、そのお姿をテレビや新聞が報じているからです。なんと神々しく、尊く美しいお姿でしよう。もちろんそれは、震災で亡くなられた多くの方々の魂への「祈り」なのでしょうが、私はそこに大地や海原の神々への「祈り」もこめられている
のではないか、と拝察しています。(つづく)
今上陛下の、御聖徳
(平成23年6月)
ご歴代の天皇は、日本古来の〝言霊〟の信仰にもとづいて、美しい言葉で、国民の幸せを祈る和歌を、詠みつづけてこられました。そのことは、今上陛下も、まったく変りません。というよりも・・・、今上陛下も、ことのほか「宮中祭祀」にご熱心である・・・といわれています。
たとえば、今上陛下は、平成十七年の「歳旦祭」のようすを、こうお詠みになっています。
「明け初むる 賢所の 庭の面は 雪積む中に かがり火赤し」
歌意は、こうです。「元日の、 夜が明けはじめた賢所の庭の上には、雪が降り積もっています。まだ薄暗いせいでしょうか。その雪の上に、かがり火があかあかと映えています」。
賢所とは、宮中三殿のひとつで、アマテラス大神をお祭りしている御殿です。元旦の朝は五時から、「四方拝」というお祭りが行われ、それにつづけて「歳旦祭」というお祭りが行われます。
この時、陛下は、宮中三殿すべてにお出ましになられるそうです。このお歌を拝見すると、この年のお祭りは、かなりの寒さの中で行われたことが知られます。
あのご年齢で、病をおかかえになりながら, 曜房一つないなかでのお祭りは、どれほど陛下のお体にこたえたことでしょう。しかし、そのような厳しい「祈り」のなかで、陛下の「御聖徳」は、ますます高く、ますます尊く、その輝きをましています。
平成という時代がはじまってから、今日にいたるまで、今上陛下が、また皇后陛下が、国内外を問わず、何人ももちちえぬ不思議な力で、どれほど多くの人々を励ましてこられたか、今ここで語りつくすことなど、とてもでません。しかし、その不思議な力のすべての源は、おそらく日々の、このような厳しい「祈り」とともにあるのではないか・・・と、私は拝察しています。
国民への励まし・・・といえば、去る三月十一日に起こった未會有の大震災にあたって、そのわずか五日後の十六日、陛下が、被災者や国民に向けたビデオ・メッセージを発表されたことも、その一つです。東京大学教授の山内昌之氏は、その感動を「これほど見事なバランス感覚」に富んだ文章を、私は知らない。歴史にも長く残ることであろう。」(『産経新聞』平成二十三年三月二十四日)と記しています。
また、陛下は、そのメッセージの前日の十五日からは、皇居の「自主停電」をつづけられているそうです。さらに栃木県那須市の御用邸では、職員宿舎の温泉風呂を被災者に解放されました。
そのために宮内庁職員や皇宮警察の護衛官から、三千四百枚の夕オルが集められましたが、タオルの袋詰め作業には、職員とともに、秋篠宮妃殿下の紀子さま、長女の眞子さま、次女の佳子さまも参加されています。
そして、三月二十五日には、皇室の「御料牧場」でつくられた食料品を、福島県の被災者に提供されているのです。なんと迅速な対応でしよう。
それなのことを知り、「ありがたいこと…」と目頭が熱くなったのは、私だけではないと思います。けれども、せっかくの陛下のビデオ・メツセージも、テレビや新聞では、一瞬しか報道されませんでしたし、秋篠宮家の皆さま方の美談も、ほとんど伝えられていません。それらを伝えることが、何より日本人の心を、暖め・・・癒し、前向きにし、ひいては復興へのおおきなちからにもなるはずなのですが・・・、いったい、日本の大手メディアは、何を考えているのでしょうか。
この原稿を書いている時点ででは、大震災の被害がどれほど広がるのか、まだ予断を許さない状況がつづいています。しかし、たとえ何があろうと、私たち日本人には皇室があります。
皇室が正しくつづく限り、私たち日本人は、どのような悲しみも・・・苦しみも、知恵と勇気をふりしぼりながら、勇ましく乗り越えてゆくことができるにるにちがいない・・・と、私は信じています。(つづく)
日本は〝言霊の幸はふ国〟
(平成23年5月)
孝明天皇からあとも、ご歴代の天皇の「祈り」は、かわりません。たとえば、明治天皇は、四十歳の時、こういうお歌を詠まれています。
「とこしへに 民やすかれと いのるなる わがよをまもれ 伊勢のおほかみ」(明治二十四[一八九二年])。
歌意はこうです。「永遠に国民が安からに暮らしてほしい・・・と、そう私は祈るばかりです。そう祈っている私の時代を、どうか伊勢の大神さま、お守りください」。
そのお子さまの大正天皇は、十九歳の時、こういうお歌を詠まれています。
「もろもろの 民安かれの 御祈りも 年のはじめぞ ことにかしこき」(明治三十[一八九七]年)。
歌意はこうです。「すべての国民が、安からに暮らしてほしい・・・と、日々祈っていますが、年のはじめ祭りの時には、特におごそかな気持ちで祈ります」。そして、そのお子さまの昭和天天皇は、七十四歳の時、こういうお歌を詠まれています。
「わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを 祈る朝々」(昭和五十[一九七五]年)。
歌意はこうです。「私の住む皇居に、宮中三殿がありますが、そこにお祭りしている神々に、私は、毎朝、世の中が平和であるよう、祈っています」
これらの御製を一つひとつ拝読していくと、現代人のなかには、「なんだか、同じような、お歌ばかりだなぁ・・・」などと思う方が、いるかもしれません。しかし、それは「言霊」という日本古来の考え方が、わかっていないから、そう思うのではないか、と思います。
「言霊」というのは、わが国の古代の言葉ですり辞書的にいえば、「言葉のもつ霊的な力」ということになりますが、これには、少し説明が必要でしょう。古代の日本人は、人に魂があるように、言葉にも霊魂がある・・・と信じていました。
つまり、言葉と現実は一つのもの・・・と信じていたのです。 「言」と「事」が、国語では同じ発音だということからも、そのことがわかります。
ですから、古代の日本人は、「よい言」と「よい事」は一つのもの・・・、逆に「わるい言」と「わるい事」も一つのもの・・・と信じていたのです。ということは・・・、「よい事」を起こすには、まず「よい言」を言わなくてはなりやせん。清く、明るく、正しい言葉・・・。それらを使うことが、自分や他人が幸福になるためにも、世のなかをよくするためにも、ある意味、もっとも大切なことだと考えられていたのです。
そのことは、たとえば山上億良の、こういう歌からもわかります。
「神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり」(『万葉集』八九四)。
歌意はこうです。「神代から言い伝えられてきたことですが、大和の国は、皇国の神々が、おごそかに鎮まっていらっしゃる国の・・・、そして言葉の霊的な力が幸福をもたらす国・・・、そう語りつかまれ、言いつがれてきました」
ご歴代の天皇陛下が、美しい言葉で、国民の幸せん祈る和歌を詠まれているのは、いずれの方も、日本の言葉がもつ霊的な力で国民を幸せにされようと、願っていらっしゃったから…ではないでょうか。ですから、同じような意昧の和歌が、詠まれつづけていることは、何も不思議なことではなく、それは、わが国に古代から生きる〝信仰〟にもとづく、一つの〝行い〟なのです。
さて、今の日本人が、ふだんの生活で使っている言葉は、とうでしょう?。街角で、テレビやネットで、どんな言葉があふれているでしょう?
崩れた言葉・・・汚れた言葉を耳にするたび、私は、とても悲しい気持ちになります。もしも私たちが、日本の未来に、よい「事」があってほしいと思うなら、まずは自分たちの「言」を、清く、明るく、正しいものに直すべきでしょう。(つづく)
世界で一つだけの〝国〟
(平成23年4月)
孝明天皇の践祚から、昭和の終わり(一九八九年)までは、およそ百三十年ほどですが、その間、世界では政治、軍事、経済など、さまざまな面で、激しい暴風雨が吹き荒れ、わが国も、むずかしい国の舵取りをつづけさまるをえませんでした。悲しい出来事も、いろいろと経験しました。
けれども今、ふと…世界を見わたしてみると、私はあることに気づいで、驚かざるをえません。それは、「いつのまにか天皇は、世界で 一人だけの〝皇帝〟になっている」ということです。
百三十年ほど昔の世界には、フランス、清国、ロシア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、エチオピアなどにたくさんの「皇帝」たちがいて、その「皇帝」の治める「帝国」がありました。しかしフランスでは明治三(一八七〇)年に皇帝(ナポレオン3世)が、その位から降ろされて「帝国」ではなくなり、清国では大正元(一九一二)年に、ロシアでは大正六(一九一七)年に、それぞれ「革命」がおこって、「皇帝」も「帝国」も消えました。
ドイツでは、第一次世界大戦のあと大正七(一九一八)年に「第二帝国」が減びています。そして、それと同じ年にオーストリア、ハンガリー帝国も滅びています。
わが国の皇室をのぞいて、最後まで残っていた「皇帝」がエチオピアの皇帝でした。その血統は「旧約聖書」に書かれている「シバの女王」にまでさかのぼる・・・といわれるほど、由緒あるものでした。「最後の皇帝」のハイレ・セラシエは、親日家としても知られていましたが、ここでも革命がおこります。そして昭和四十九(一九七四)年、ハイレ・セラシエは皇帝の位から降ろされ、そのあと悲運のうちに死去しています。
そういうわけで、孝明天皇のことろは、世界中にたくさんいた「皇帝」たちも、たくさんあった「帝国」も、もう昭和の中ごろには、天皇と日本をのぞき、一人も、、、一つもなくなってしまったのです。ですから今では、欧米人の目から見て、世界中の君主のなかで「皇帝」と呼べるのは、日本だけになりました。
ちなみに、欧米人の考え方では、同じ君主国とはいっても、ランクがあって、もっとも上のランクが「帝国」です。その下に「王国」(イギリスやデンマークなど)があり、さらにその下に「公国」(モナコ公国など)があります。
ですから、テレビなどでは、何も知らない人たちが、しばしば外国の王室のことを「皇室」とまちがって呼んでいませんが、それは「国際基準」をまったく知らない人なのです。 わが国の皇室は、いずれにせよ「万邦無比」の(世界で、他に比べるものがない)ご存在で、外国人でさえ日本のとを「帝国」と呼んで、そのことを知っているのに、今は当の日本人が、そのことを何も知らないのですから、情けない話です。
それにしても、なぜ皇室だけが、世界唯一の「皇帝」として残ったのか?と、時に考えることがあります。その理由をあげはじめたら、きりがないでしょう。
じつは恐ろしいことに日本には、今も本心では「皇室をなくしてしまいたい(革命を起こしたい)」と考えている知識人たちが、たくさんいて、それらの人々は自分の本心を隠しつつ、その人なりに「皇室がつづいている理由」を懸命に研究しています。けれども、どれだけ研究したところで、彼らには、そのほんとうの理由は、けっしてわからないでしょう。
なぜなら、彼らには「祈り」がわからないからです。「祈り」がわからない人には皇室がわかりません。
皇室がわからない人には.「日本」がわかりません。「日本」がわからない人が、どれだけ「日本文化」や「日本歴史」の〝知識〟をえたところで、たぶんその本質は、永遠につかめないと思います。(つづく)
孝明天皇の祈り
(平成23年3月)
歴史をかえりみると、天皇の「祈り」は、その時代が、厳しいものであればあるほど、激しいものになります。たとえば幕末です。
時の天皇は、孝明天皇(第百二十一代・一八三一~六六年)でした。明治天皇のお父さまです。
弘化三(一八三六)年、お父さまの仁光天皇が四十七歳の若さで崩御され、すぐに践祚(天皇がお亡くなると同時に、皇太子が皇位を継承されること)をされます。時に、まだ十六歳というお若さでした。
けれども、すでにそのころ、日本をとりまく情勢は、とても危険なものになっていました。践祚された弘化三年という年にかぎっても、こういう出来事がおこっています。
●四月… イギリス.フランスの軍艦が琉球に来航する。
●閏四月...アメリカの東インド司令長、浦賀に来航する。
●六月… フランスのインドシナ艦隊司令長官・セシュが長崎に来航し、デンマークの船が、相模に来航する。
●八月... イギリス軍艦が、琉球に来航する。
そのころ、アジア・アフリカ・オセアニアの、ほとんどの地域は、欧米諸国の「植民地」にされつつありました。そのことを知っていた心ある人々は、外国船の来航が、あいつぐのを聞いて、「いよいよ日本にも、彼らの手がおよんできた」と感じたことでしょう。
ふと...現代に目を移すと、今の日本も北や南の固有の領土を奪われそうになっています。ですから、その時代の心ある人々の気持ちが、ようやく今の日本人にも、少しはわかるようになってきたのではないでしょうか。
孝明天皇は、そのようか時代のなかで、わが国の行く末を心から心配され、この年の八月、幕府に「御沙汰書」を出されています。いわば「命令書」です。
江戸時代はすべての政治を幕府が仕切る事かま当たり前の時代でしたから、それまで天皇が幕府に「命令書」を出すなどということはあリませんでした。それにもかかわらず、勇気をふるって「御沙汰書」を出されたのは、それだけ孝明天皇が、わが国の行く末を心配されていたということにほかなりません。
そのあと、孝明天皇は、伊勢の神宮をはじめとする日本の神社仏閤に、「国安かれ、民安かれ」の激しい祈りを、くり返しささげられるようになります。たとえば、安政元年(一八五四年)二月九日には、伊勢の神宮へ「祈り」をささげられていますが。その「祈り」の内容は、「外国人たちが、日本のいうことを聞いて、帆を翻して、早く帰り、日本が平和でありますように」というものです。
同じ月の二十二日には、伊勢神宮以下の二十二の神社と、伊雑宮以下の十一の神社に日本の安全をお祈りされました。さらに、この年には、五月と九月にも、同じことをくり返しされています。
そのような孝明天皇の、お心のうちは、こういう御製(天皇のおつくりになつた和歌や漢詩や文章のこと)からも知ることができます。
「異人と 共ども払へ 神風や 正しからずと わが忌むものを」(文久二年・御年三十二歳)。
歌意はこうです。「伊勢の神風よ・・・、日本を植民地にしようとして手をのばしてくる外国人たちとともに、〝まちがっている〟と私が嫌うものすべてを、吹き払ってください」。
私たちは、しばしば気軽に、「祈っています」と言います。けれども、孝明天皇の祈りは、そういう気軽なものではありません。いわば「命がけ」のものだったのです。
孝明天皇には、こういう御製もあります。
「わが命 あらむ限りは 祈らめや つひには神の しるしをもみん」(安政六年・御年二十九歳)。
歌意はこうです。「私は命あるかぎり、祈りつづける。そうすれば、きっと神々も、私の祈りをお聞き届けくださるにちがいない」。(つづく)
皇室は祈りでありたい
(平成23年2月)
ご歴代の天皇が、どれほど「祈り」を大切にされてきたか・・・ということについては、これまで申し上げてきたとおりですが、そのようなご歴代の天皇のなかでも、今上陛下は、ことのほか厳格に「宮中祭祀」をお勤めされています。それを思う時、思い出されるのが、紀宮内親王のこのようなお言葉です。
「以前、元東宮大夫が記した記事の中で、皇后様がおっしゃっておいででした『皇室は祈りでありたい』という言葉を、よく思い出します」(お誕生日前の会見でのお言葉・平成二年四月十六日)
天皇と、わが国が一体であるように、天皇と「祈り」も、また一体なのです。ということは・・・、わが国と「祈り」も、また一体なのでしょう。
それでは、その天皇の「祈り」とは、おそれながら、どのような内容なのか、ここで考えてみたいと思います。
今上陛下が、まだ皇太子でいらっしゃったころ、こういうことをおっしゃっています。
「天皇は...伝統的に国民と苦楽をともにするという精神に立っています。このことは、疫病の流行や飢饉にあたって民生の安定を祈念する…後奈良天皇の写経の奥書などによっても、あらわされていると思います」(昭和六十一年)
ここに見える後奈良天皇(第百五代・一四九六〜一五五七)は、戦国時代の天皇です。長くつづいた戦乱のせいで、戦国時代の皇室は、経済的にも、たいへんお困りであったといいます。
たとえば、天皇として即位した以上必ず行わねばならない、もっとも大切なお祭り・・・といわれているのが「大富祭」ですが、経済済的な問題で、それをなかなか行うことができず、伊勢の神宮にそのことをお詫びする文書を届けられています。 そしてとうとう「大嘗祭」を行うことができないまま、崩御(天皇がお亡くなりになること)されるのです。
しかし、そのような苦しい状況にあっても、後奈良天皇は病や飢えで苦しむ国民のことを心配され、けんめいに「民生の安定」を祈られていました。そのことは、天皇が醍醐寺の三宝院に納めれた「般若心経」によって知ることができます。
天皇はおんみずから「般若心経」を写され、それを、ひそかに奉納されたのですが、その末尾には、こういうことが書かれています。
「今年は、天下に疫病がはやり、多くの民が死に瀕しています。それも、私の民の父母としての、徳が足りないせいであると思われ、とても辛い思いでいます。ですから、私は人に知られないようひそやかに『般若心経』を金の字で写し、義堯憎正の手によってここにお納めします。心から、これが民の病を癒す妙薬になってくれることを, 祈ってやみません」(天文九年六月十七日・『宸翰栄華』)
「民の父母として」という言葉は、天皇という御存在の本質をあらわした言葉として、今も広く知られています。
ここで後奈良天皇は、ご自身の経済的なお苦しみよりも、「民」の苦しみに心を痛められ, そして、「民」が苦しんでいるのも、 「(私の)徳が足りないせいである」とご自身をお責めになっています。
そして〝せめて、このお経の力で、、、〟と、 おんみずから写経されたのですが、それをお寺に納める時は、ひっそりと、めだたないように納められたのです。いつの世も天皇は、今時の政治家のように「私は、こんなに国民のことを思っています」などというパフォーマンスなど、けっしてされません。
いったい、そのような君主が、日本以外の国で(伝説上はともかく、、、)歴史的に実在したでしょうか。しかし、日本にはいつの時代も、そのような天皇がいらっしゃって、私たち国民のことを心配してくださっているのです。(つづく)