松浦光修先生のコラム
2024-03-03T03:03:38+09:00
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松浦先生のコラムブログです
Excite Blog
みたみわれ 皇室と国民(26)
http://matsumitsu.exblog.jp/33461878/
2024-03-03T03:03:00+09:00
2024-03-03T03:03:38+09:00
2023-09-28T00:11:21+09:00
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みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和3年2月)
人々の悲しみや苦しみに寄り添いつづけながら、一方で、そのような人々とともに溺れる"という「失敗」をしないためには、「信仰」が必要になる、というお話をしました。そのお手本が、おそらく天皇陛下でしょう。それでは、天皇陛下の「信仰」とは、どのようなものなのでしょうか。神武天皇以来、天皇の御本務が「祈り」であるということは、すでにお話ししましたし、その「祈り」が、「世の平らぎ」を祈るもの・・・ということも、すでにお話ししました(この連載の⑦を参照)。それでは御歴代の陛下は、いったい”何に向かっ"そのような「祈り」をささげてこられたのでしょうか?
天皇陛下の主な「祈り」の場所は、皇居のなかにある宮中三殿です。賢所・皇霊殿・神殿の三つの御殿をいいますが、賢所ではアマテラス大神を、皇霊殿では歴代天皇・皇后・皇族の方々の御霊を、神殿では八百万の神々をお祭りしています。ですから天皇陛下は、そういう神々や御霊に対して「祈り」をささげていらっしゃるのですが、よく考えてみると、アマテラス大神の御子孫である初代・神武天皇の、その男系の御子孫が御歴代の天皇陛下なのですから、じつは「賢所」と「皇霊殿」は〝ひとつづきのもの〟といえます。さらにいえば、「神代の物語」では、イザナギの命、イザナミの命から、わが国の山川草木やさまざまな神々がお生まれになったわけですから、じつは「神殿」も「賢所」や「皇霊殿」と〝ひとつづきのもの"といってよいでしょう。
古来、わが国の人々の信仰を一言であらわし
たものとして、「敬神崇祖」という言葉があります。「神々を敬し、先祖を崇ぶ」ということです。 「神」というと、現代の私たちは、どうしても近代の欧米思想の影響で、何となく”自分と切り離された存在"と思いこんでいますが、古来の日本人の感覚からすると、それはかり“外国風"の考え方です。日本人にとって「神々」とは、自分の父母からさかのぼっていく「先祖」と〝ひとつづきのもの"なのです。現に天皇陛下は宮中三殿で、神々と御先祖の御霊という”ひとつづきのもの"に向かって、日々、祈りをささげていらっしゃいます。
その“ひとつづきのもの"の入り口にあるのが、たぶん「崇祖」です。ですから、御歴代の天皇陛下は、「崇祖」ということには、とくに御心を注がれてきました。ここではその一例として、昭和天皇の御製を拝読しましょう。昭和五十四年、御年七十九歳の時、「甘樫の丘にて」という詞書のある、こういう御製があります。
「丘に立ち 歌をききつつ 遠つおやの しろしめしたる 世をししのびぬ」。
奈良県の甘橿の丘で、古代の御歴代の御代を想起されているのです。昭和六十年、御年八十五歳の時にも、こういう御製を詠まれています。
「遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史をしのび けふも旅ゆく」。
「遠つ祖」を偲ぶ御心が、天皇陛下の「信仰」の基層にあります。そしてそのような心は、すべての日本人の「信仰」の基層にも、あるのではないでしょうか。
(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(25)
http://matsumitsu.exblog.jp/33461869/
2024-02-23T02:23:00+09:00
2024-02-23T02:23:04+09:00
2023-09-27T23:51:10+09:00
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みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和3年1月)
皇室とは“仁の結晶”というお話をしました。
古今東西、「仁」の心をもっていた君主は、もちろん外国にもいるでしょうが、それは稀有なことです。それに比べてわが国では「仁」の心をおもちでなかった天皇の方が、むしろ稀有でしょう。皇統は、いく千年にもわたり男系で継承されてきた・・・というだけではなく、いつの時代にも "仁の結晶"のような、お心の高さをもつ天皇がいらっしゃいました。その事実は、もはや「奇跡」という言葉だけでは表現しきれません。私などは「奇跡」という言葉を数十回も掛け算して、それでも足りないくらいのことではないか、と思っています。
それでは、なぜわが国のみが、そのような歴史を、長く紡いでくることができたのでしょうか? そのことについて、これまでいろいろな学者が知恵を絞って、さまざまな説明を試みてきました。しかし私から見ると、それらはどれも、あまりうまくいっているようには思えません。その理由は、合理主義的な思想に覆われた近代の社会においては、たぶん「知識」があればあるほど、"ある視野の角"が、かえって拡大するせいではないか・・・と、私は思っています。
そもそも「仁」とは、「人の不幸を、切にあわれみ、深く痛む心」です。人はできるかぎり、そのような「仁」の心を発しながら、すべての人に接したいものですが、そのさい、まったく〝無防備”で、さまざまな人に接するのは、ある意味〝危険なこと" でしょう。なぜなら、他者の悲しみや苦しみを、ともにしようとしている人が、いつしか他者の悲しみや苦しみに飲み込まれてしまう"ということが、時におきてしまうからです。 それは溺れる人を救おうとして、海に入った人が、ともに溺れてしまうことに似ています。
かつて詩人の谷川俊太郎さんは、臨床心理学者の河合隼雄さんに、こう問いかけています。 「一人の人間が自分の容量の限界を意識したら、ある程度、相手を非人間的に扱わないと、自分が破滅するという状況がある」のではないか?と。それに対して河合さんは、「精神病のこととか精神病院のこと」を具体例としてあげつつ、こう答えています。「実際に見ると精神科医も冷たいし、看護婦も冷たい。けれどもそれは、そこに生き長らえるための一つの知恵として長い経験の中から出てきたものなんですね。だから自分が生き生きとしつつ、なお不治の病いの人間と接していくなんていうことはものすごく大変なことでして、そういう覚悟を持たずにやった人は全部失敗していると思います」 (河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない』)
そのような「失敗」をせず、それでも「仁」の心を発しつづけるためには、さて・・・どうすればいいのでしょう? とてもむずかしい問題ですが、私はその問題を解く鍵は、「信仰」にあるのではないか・・・と、思っています。先に私がいった”ある視野の死角"とは「信仰」です。「信仰」を視野に入れないまま、いくら「知識」を積んでも、皇室の本質は、たぶんわからないでしょう。
(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(24)
http://matsumitsu.exblog.jp/33461862/
2024-01-01T00:00:00+09:00
2024-01-01T00:32:57+09:00
2023-09-27T23:37:55+09:00
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みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年12月)
災害や疫病や戦乱などは、いうまでもなく〝ない方がよいにきまっているもの"です。 平和な日々のなかでさえ、「家内安全」を保つのは大変なことなのに、もしも国を、災害や疫病や戦乱などの悲劇が襲えば、日々の暮らしは、まるで台風に襲われた一ひらの木の葉のように、飛び散ってしまうことでしょう。
そのような時、多くの場合は、誰を恨むわけにもいきません。それでも、きっとほとんどの人々は、その悲しみや苦しみを "誰かにわかってもらいたい”と思うはずです。
もちろん、具体的な支援は必要です。けれども、悲しみ、苦しむ人々には、それだけではなく、心からわかってくれる人"が必要なのです。
国民の苦しみを心からわかること"...それが古代の東洋で、聖人と呼ばれた皇帝たちの、きわめて大切な資質でした。シナの古代に、堯と舜と禹という三人の伝説上の皇帝がいますが、それらの皇帝について、『孟子』という本には、こう書かれています。
「洪水を治めた聖人である禹という帝王は、もし、天下で一人でも溺れる人がいたら、まるで自分が溺れさせたかのように責任を感じ、聖人である帝王・堯と舜に仕えた名臣・稷は、天下で飢えている者がいれば、まるで自
分が飢えさせたかのように責任を感じていた」(「離婁」下)。 また『孟子』には、「殷」の時代の名臣・伊尹について、こう書かれています。
「伊尹という人は、世の中のすべての人々>・・・、それが、たとえ名もなき人々であろうと、とにかく人という人は、すべて堯や舜の
時代のような愛ある政治の恩恵に浴する資格がある・・・と考えていました。もしも恵に漏れている人が、 この世に一人でもいれば、伊尹は、その人を、まるで自分が手で押して溝のなかに突き落としたかのような・・・、そのような罪悪感を覚える人でした」(「万章」上・下)
つまり、「禹」も「稷」も「伊尹」も、民の
心が、“わかる"人であり、そうであるからこそ、〝民の不幸は、自分の不幸〟と思えたのです。『孟子』には「側隠の心」という有名な言葉もあります。これは、「人の不幸を、切にあわれみ深く痛む心」ですが、つまりその三人は「側隠の心」をもっていたわけです。「側隠の心」こそ、じつは儒教で「聖人」と称えられている孔子が、もっとも大切にした”人の心のかたち”に直結するものでした。それは、「仁」です。今の言葉でいえば、「愛」ということになるでしょう。
ここで、御歴代の天皇陛下、あるいは皇族方の御名に、必ずといってよいほど「仁」という文字が入っている、ということにお気づきの方もいらっしゃるはずです。
たとえば、明治天皇は「睦仁」、大正天皇は「嘉仁」、昭和天皇は「裕仁」、上皇陛下は「明仁」、今上陛下は「徳仁」ですが、考えてみれば、まさに皇室とは、"仁の結晶”ともいうべき御存在なのかもしれません。
(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(23)
http://matsumitsu.exblog.jp/33437267/
2023-12-23T00:00:00+09:00
2023-12-23T00:07:29+09:00
2023-09-19T00:04:21+09:00
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みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年11月)
今上陛下は百二十六代の方ですから、その前には百二十五方の天皇がいらっしゃいます。
しかし、そのなかで後奈良天皇は、今、さほど有名なお方ではありません。ちなみに、現在の中学や高校の歴史教科書を調べてみると、すべての教科書に、なんと一度もそのお名前はあらわれていないのです。 もちろん本誌の読者の方は、この連載で私が少し触れていますので、ご記憶の方もいらっしゃるでしうが、要するに後奈良天皇の御存在は、戦後の歴史教育では一貫して「無視」されてきたといえます。
しかし、上皇陛下や今上陛下が繰り返し言及されている・・・ということは、そのお名前そのものに、何か深いメッセージが秘められている、と考えた方がいいはずです。そのメッセージを読み解く"鍵"は、上皇陛下が大東亜戦争の戦闘終結の月である昭和二十年八月、御年十一歳の時にお書きになった作文にあるような気がします。その作文は、この連載⑩でも引用しましたが、そこには、「今は日本のどん底です」という一文がありました。そのお言葉と、「後奈良天皇」という御名前と、そして、この連載⑧⑨で書いた「『占領」という暴風雨」 の三点を、あわせて考えてみると、私には、そこから上皇陛下や今上陛下の、こういうメッセージが聞こえてくるような気がします。"「戦後」というこの時代は、皇室にと
しかし、戦国時代にあっても、自分のことは
後にして、まずは国民の平安を祈るという御歴代の方々に一貫している精神を、後奈良天皇は、毅然とおしめしになられました。ですから私も、その精神を、正しく受け継いでいくつもりです。
いつの世も、災害や疫病などによる悲しみや苦しみは、絶えることがありません。かつては国土が戦火によって灰燼に帰したこともあります。しかし、国民に悲しみや苦しみが襲うたび、いつの世の天皇陛下も、いわば「やむにやまれぬ」といったごようすで、お言葉を発され、また無言で、ありがたい行いをなされてきました。五百年の歳月を経ても、後奈良天皇の大御心と、上皇陛下・今上陛下の大御心は、何も変わることはないのです。
東日本大震災の時の上皇、皇后両陛下の御精励については、この連載 ⑰〜⑲でも触れましたし、そのお力は「神仏の力」に由来するのではないか、ということも、すでにお話ししました。そのように、尊い「無償の愛」を、力のかぎり国民に注がれつつ、しかし両陛下は、けっして自らの言行に「満足」されたことはないでしょう。
なぜなら後奈良天皇は「宸翰般若心経」の「奥書」に「私は〝民の父母"である天皇という立場にあるにもかかわらず、徳によって民をつつみ込み、幸せにすることができていません」
とお書きになっているからです。「徳、覆うこと能わず」と・・・、いつの世も天皇陛下は、みずからの「不徳」を責めていらっしゃいます。そのような君主が、古今東西・・・・、わが国の天皇のほか、いったいどこにいるでしょうか。
(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(22)
http://matsumitsu.exblog.jp/33426151/
2023-11-03T11:03:00+09:00
2023-12-04T17:24:22+09:00
2023-09-14T00:11:58+09:00
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みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年10月)
平成二十九年二月、今上陛下は、お誕生日の記者会見で記者から「天皇の在り方」について質問されたさい、前年(平成二十八年)の八月、愛知県西尾市の岩瀬文庫で、後奈良天皇の「宸翰般若心経」をご覧になったことについて、お話しになっています。
ちなみに、「宸翰」というのは、天皇がお書きになった文書という意味で、ですから、「宸翰般若心経」とは、つまり「天皇の直筆の般若心経」という意味になります。
。
その記者の質問に対して、陛下は、まず上皇陛下が平成二十八年八月に発せられた「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」のなかの、こういうお言葉を引用されました。それは、「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」というものです。
そして、その思いを自分も受け継ぎたい・・・とされつつ、じつは歴代天皇も、その思いは同じであった・・とおっしゃっています。あと歴代天皇のお名前を、具体的に次々とあげていかれるなかで、後奈良天皇と岩瀬文庫の「宸翰般若心経」についても、詳しく語っていらっしゃいます。
これは大切なお言葉ですので、少し長い引用になりますが、ここにあげておきます。
「昨年(平成二十八年)の八月、私は、愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に、戦国時代の十六世紀のことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。
紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般若心経は、岩瀬文庫以外にも、幾つか残っていますが、そのうちの一つの奥書には、「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている』旨の天皇の思いが記されておりました。
災害や疫病の流行に対して、般若心経を書写して奉納された例は、平安時代に疫病の流行があった折の嵯峨天皇を始め、鎌倉時代の後嵯峨天皇、伏見天皇、南北朝時代の北朝の後光厳天皇、室町時代の後花園天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、そして、今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。
私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下が、まさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います」。
質問した記者は、たぶん”目新しい天皇の質問しい在り方”を、何かお話しいただいて、それを記事にしたかったのでしょうが、そのような〝引っかけ質問〟に乗せられる陛下ではありません。
陛下は歴代天皇の大御心を、上皇陛下が受け継がれ、そしてそれを自分も受け継いでいきたい…・と、キッパリ宣言されているわけで、畏れながら、まことに"おみごと"と申し上げるほかありません。
(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(21)
http://matsumitsu.exblog.jp/33426101/
2023-10-10T01:10:00+09:00
2023-12-04T17:22:39+09:00
2023-09-13T23:54:01+09:00
matsuura_mn
みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年9月)
後奈良天皇の御代から、およそ四百数十年ほどのちの昭和六十一年五月、現在の上皇陛下が、まだ皇太子でいらっしゃったころ、後奈良天皇について語られたことがあります。
『読売新聞』から質問を受け、文書でご回答になったのですが、そのご回答文のなかで、上皇陛下は、後奈良天皇が、写経の末尾にお書きになったお言葉について、こう触れられています。
「天皇は、政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。このことは、疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の天皇の写経の精神や、また『咲、民の父母と為りて、徳覆うこと能はず。甚だ自ら痛む』という後奈良天皇の写経の奥書などによっても表されていると思います」。
つまり、苦難のなかにあっても、常に民の平安を祈りつづけられた後奈良天皇は上皇陛下の〝お手本〟であったのでしょう。上皇陛下が、そうご回答になってから、三十年ほどのち…・、平成二十八年八月七日のことです。
今上陛下(当時は皇太子殿下)は、愛知県の西尾市にある岩瀬文庫に立ち寄られ、後奈良天皇の「宸翰般若心経」をご覧になっています。陛下をご案内した学芸員の青木眞美さんによると、陛下は、若い青木さんの説明を熱心に聞いてくださり、青木さんが説明をしている間、ずっとガラスケースに顔をお近づけになって、うなずきながらお聞きになっていたそうです。 そして、「たいへん美しいものですね」と、おっしゃったといいます。
その翌日(八月八日)、心ある全国の国民に衝撃が走りました。
上皇陛下(当時は天皇陛下)が、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」を発せられたからです。
「身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、むずかしくなるのではないか」とのお言葉をうかがい、胸に万感の思いが迫った国民は、少なくなかったでしょう。私もその放送を、食い入るように見たものです。
その日から、近代日本史上、はじめてとなる「譲位」への動きがはじまります。翌・平成二十九年二月、今上陛下は、お誕生日の記者会見に臨まれました。
そして、前年の八月七日・八日のことをふりかえられて、「はからずも、二日つづけて、天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます」とおっしゃっています。
とても興味深いお言葉で、今上陛下からすれば、四百数十年の隔たりなど何ということもなく、 後奈良天皇も上皇陛下も、同じ「天皇陛下」…、 つまり歴代天皇は時空を超えて、〝一つの御存在"ということなのでしょう。
かつて私は、長く宮中で内掌典を勤められた髙谷朝子様とお話したことがあります。
そのあと私は、「どうやら宮中と私たち外の世界とでは、〝時間の感覚〟が、ずいぶんちがうらしい」という不思議な感じを受けたものですが、陛下のそのお言葉を拝読して、私はその時の記憶が、ふと・・・よみがえりました。 (つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(20)
http://matsumitsu.exblog.jp/33071960/
2023-09-09T09:09:00+09:00
2023-12-04T17:20:19+09:00
2023-05-13T15:30:04+09:00
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みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年8月)
天皇陛下、皇后陛下は、国民の「お父さん」
「お母さん」のようなもの…というのは、何も私が勝手に言っていることではありません。
昔から、天皇おんみずからが、そうお考えだったのです。
たとえば、後奈良天皇(一四九六〜一五五七)がそうです。
後奈良天皇の御代は、いわゆる戦国時代で、皇室が、もっとも衰えた時代といわれています。 後奈良天皇は践祚(せんそ/天皇の位を継がれること)されたものの、即位の礼ができず、ようやくできたのが、なんと践祚から十年後というありさまでした。
"天皇が天皇になるための儀礼〟は、践祚と即位礼のほかに、もう一つ重要なものがあります。
大嘗祭です。
これは古来、「神代の風儀をうつす」もの(一条兼良)として、皇位継承儀礼のなかでは、ある意味、もっとも重視されてきたものですが、 後奈良天皇は、とうとう大嘗祭を行うことができないまま、崩御されます。さぞやご無念であったことでしょう。
皇居では毎年、新嘗祭が行われています。新嘗祭は、秋の収穫を神々に感謝するお祭りで、数ある皇室祭祀のなかでも、もっとも重要なお祭りです。
新しい天皇が即位されて最初の新嘗祭は、特に大規模に行われるのですが、それが大嘗祭です。
今上陛下の大嘗祭が、令和元年十一月十四日から十五日にかけて行われたことは、まだ記憶に新しいところでしょう。
ところが、歴史上には、大嘗祭を行えないまま、御位を退かれた天皇も、少なくありません。
後奈良天皇の三百年ほど前の、第八十五代の仲恭天皇(一二一八〜三四)もそうでした。
四歳で即位され、 在位わずか七十五日で譲位されています。
南北朝時代の歴史書『帝王編年記』には、仲恭天皇が大嘗祭を行われていないことを理由に、「世に半帝と称す」…つまり、「世間では半分の天皇と呼ばれている」と書かれていますが、大嘗祭とは、天皇にとって、それほど重要な儀式なのです。
しかし、戦国時代になると皇室が経済的に衰え、大嘗祭を行うことができないまま、次の方に皇位継承される…・という事態が常態化します。 結果的に、第百四代の後柏原天皇(一四六四)から九代、なんと二百二十年もの間、大嘗祭は行われていないのです。
しかし、そのような厳しい時代にあっても、後奈良天皇は、国民の平安を祈りつづけられます。 天文八(一五三九)年、洪水と凶作が起こり、翌年には飢饉が起こり、その上、疫病が流行しました。後奈良天皇は天文九年、疫病の流行が終息することを願って「般若心経」を書写され、それを醍醐寺に奉納されます。
写経の末尾に書かれているお言葉は、こうです。
「私は“民の父母”である天皇という立場にあるにもかかわらず、徳によって民をつつみ込み、幸せにすることができていません。そのことについて、自分で、しきりに自分のことを責めています」。
厳しい時代のなか、後奈良天皇は、ご自身が救われることよりも、まずは民が救われることを願われているのです。
これこそ、まさに「民の父母」のお姿でしょう。(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(19)
http://matsumitsu.exblog.jp/33071881/
2023-08-15T08:15:00+09:00
2023-12-04T17:17:59+09:00
2023-05-13T15:07:30+09:00
matsuura_mn
みたみわれー皇室と国民ー
東日本大震災のころの、上皇陛下、上皇后陛下をつき動かしていたものとは、いったい何でしょう? それは、たぶん「祈り」から発する、かぎりなく清らかな“力”…、言い換えれば〝無私の力”ではないでしょうか。
そもそも人は、肉体をもって生きている以上、完全に私を「無」にすることは不可能ですが、 それでも”無私に近づくこと"なら、 じゅうぶん可能なはずです。
そうであれば、私たちに常に問われているのは、“自分は今、どれだけ無私に近づいているのか?" ということかもしれません。
私は、その事情について、よくコップの水にたとえて話しています。「私」というコップがあるとして、そのなかに満々と「私心」が満ちていたら、そのコップに、もう他のものは注ぎこめず、いくら注いでも、注いだものは外にあふれ出るだけでしょう。
けれども、「私」というコップのなかの「私心」が、少なければ少ないほど、コップのなかには、“別のもの”が注ぎ込まれるはずです。
心から神仏を尊んでいる人には、そこに「神仏の力」が注ぎ込まれるのではないでしょうか。
人が人から受ける“感じ”は、それこそ千差万別ですが、その〝ちがい”を生んでいる理由は何でしょう?
私はその一つに、その人のなかの「神仏の力」の比率が、高い人と低い人の”ちがい”ではないか、と思っています。
「神仏の力」は、この世では「無償の愛」としてあらわれます。
「愛」にもいろいろな「愛」があり、「執着」に近い愛もありますが、「無償の愛」はそれとはちがい、この世でもっとも尊い愛です。
古代ギリシャでは「アガペー」と呼ばれていました。
それは、「見返りをもとめない愛」…「与えるのみの愛」です。それは、ちょうど太陽が、天地の万物に注ぐ光のような愛…と、考えればいいでしょう。太陽は日々、何の見返りも求めることなく、 光を一方的に注いで天地の万物を育んでくれますが、「無償の愛」は、それとよく似ています。
人間の世界で、もっとも「無償の愛」をあらわしているのが、父母が子に注ぐ愛でしょう。
悲しいことに戦後は、「男女平等」が、いつのまにか男女の特性を否定することと誤解されるようになり、ひいては母性や父性まで軽視されるようになりつつあります。
現在、子供たちが虐待される痛ましい事件が後を絶ちませんが、たぶんその理由の一つは、そのような誤解にあるのではないでしょうか。
しかし今も、ふつうのお父さんやお母さんは、わが子に「無償の愛」を注いでやみません。
「わがままな子」でも「どうしようもない子」でも、それは同じです。それどころか、そういう子供であるなら、なおさら愛してやまない…・というところに、父母という存在の、そもそもの尊さがあります。
そのことについて吉田松陰は、こう詠んでいます。
「親思ふ こころにまさる 親ごころ」。
とくに母性は、かぎりなく尊いものです。 観音さまにも、マリアさまにも赤子を抱いていらっしゃる御像がありますが、それは、そのようなお姿が人間の世界で、「神仏の力」を、もっとも具体的にあらわしている…からではないでしょうか。(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(18)
http://matsumitsu.exblog.jp/33025265/
2023-07-07T07:07:00+09:00
2023-11-28T11:35:14+09:00
2023-04-26T21:16:43+09:00
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みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年6月)
平成二十三年三月十一日、東日本大震災の当日のことです。その日、皇居で清掃奉仕をしていた人々が帰れなくなり、皇居に泊めてもらうことになります。
侍従長の川島裕さんはその時のようすを、こう書いています。
「(十一日)夕刻、侍医の一人が皇后さまの御依頼で窓明殿を訪れ、人々の様子を診、体調を崩していた女子大生に対し、処置をとることができた。」
「(十二日) この朝、皇后さまは、窓明殿におもむかれた。前夜をここで過ごした勤労奉仕団の内の一団は、すでに早朝出発していたが、八時ごろに出発を予定している大学生の一団を見舞い、発熱のため、あとに残らなければならない学生一名が宮内庁病院で休めるよう、現場にいた職員に手配を依頼し、御所に戻られた」 (「天皇皇后両陛下の祈り 災厄から一週間」・『文藝春秋』平成二十三年五月号)
ここでいう「大学生の一団」とは、じつは、皇學館大学の学生の奉仕団のことで、「体調を崩していた女子大生」と、「あとに残らなければならない学生一名」というのは、同一人物です。
あとで私は、その女子学生から、直接、その時のようすを聞いたのですが、そこには、川島さんの文章には書かれていない感動的な秘話がありました。
時間軸に沿って正確に言うと、体調を崩していた女子学生は、十一日の夜、皇后陛下の御配慮で、宮内庁病院に入院させていただき、そこで一晩を過ごしたのですが、その翌朝、なんと皇后陛下が、大震災で日本中が動揺しているさなか、その一人の女子学生の身を案じて、おんみずからお見舞いにいらっしゃったのです。
その出来事について、当時の皇學館大学の「学園報」は、こう報じています。
「(奉仕団団長・男子学生の談) 十二日
早朝には、皇后陛下が御みずから窓明殿にお越しくださり、『だいじょうぶですか』 『体調が悪い方は、いらっしゃいませんか』 と、お言葉をくださったばかりか、体調を崩し、宮内庁病院へ入院させていただいている女子団員に、御見舞を賜ったという」(『皇學館大学学園報』平成二十三年八月一日)
おそらく上皇后陛下は、〝若い女性の身で、知らない都会で大地震に遭遇し、しかも体調を崩しているという・・・、いかばかり心細い思いをしているか…"と思し召され、迷うことなく病室に向かわれたのでしょう。
上皇后陛下が、国民一人ひとりを"わが子"のように大切に思ってくださっていることが、その一事からもわかりますが、私はその女子学生から、その時の話を聞きつつ、「御心(みこころ)」のありがたさというものを、身に染みて”実感”したものです。(つづく)
【付記】
現在、武漢から発生した未知のウィルスによる未曽有の惨禍が、全世界を覆いつくしていますが、両陛下におかれては、そのことについて、いたく御心を痛められ、四月十一日、皇居に政府の感染症対策専門家会議座長・尾身茂氏を招いて、国内外の感染状況をお聞きになられています。
「民の父母」として疫病の流行を憂えられ、「般若心経」を写経して奉納された後奈良天皇をはじめとする御歴代天皇の大御心は、今上陛下の大御心(おおみこころ)でもあるのです。
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みたみわれ 皇室と国民(17)
http://matsumitsu.exblog.jp/33025244/
2023-06-02T06:02:00+09:00
2023-11-28T11:31:16+09:00
2023-04-26T20:58:32+09:00
matsuura_mn
みたみわれー皇室と国民ー
上皇、上皇后両陛下の、戦後という時代との“戦い”の方法は「祈ること」の他に、もう一つあります。
それは、国民に「寄り添うこと」です。
御在位中、両陛下は、思いもかけない天災で命を落とされた方々の御霊や、不幸にみまわれた方々の心を慰め、励ましつづけてこられました。
多くの国民にとって、今も記憶に残っているのは、平成二十三年の東日本大震災の時の、被災地への御訪問でしょう。
私の手元の記録では、両陛下は、すでに三月十五日には皇居の自主停電をはじめられています。翌十六日、異例の「ビデオ・メッセージ」を発せられ、早くも三月三十日には、東京武道館の被災者のもとに出向かれています。
以後、埼玉県、千葉県、茨木県、宮城県、岩手県と…、御訪問はつづき、五月十一日には福島県を訪問されます。
この間、七回、つまり…ほぼ週に一度というペースです。
両陛下は、あのお歳で・・・、あのお体で、本来、若く屈強な人々が乗るための自衛隊のヘリコプタ―で、東京と被災地を、「日帰り」で往復されています。 なぜ「日帰り」なのか…、それは、被災地の人々に余計な負担かけまい・・・・との、お考えからです。
しかし、そのような過酷ともいえる御精励が、上皇陛下のお体にさわったのでしょう・・・、そのあと東大病院に御入院という事態にいたりました。 両陛下の御訪問は、まさに身を挺された“戦い”であったといえます。
被災地を訪問されるたび、両陛下がガレキに向かい、深々と一礼されている写真や動画は、今も多くの国民が記憶しているはずです。
そのような両陛下のお姿は、戦没者の慰霊のさいにも、しばしば見られたものですが、その一礼は、じつはすべて〝祈りのお姿〟ではなかったか・・・と、私は思っています。
両陛下の一礼は、いつも以下のように行われます。
まず天皇陛下が低頭されはじめられる…すると、一瞬おいて皇后陛下が低頭されはじめ、両陛下が深々と低頭されると、しばらく時間が止まり、次に天皇陛下が頭を上げはじめられる・・・すると、一瞬おいて皇后陛下も頭を上げはじめられる・・・。
そういえば、平成十七年のサイパン島への慰霊のさいも、両陛下は、紺碧の南の海のかなたの崖に向かい、深々と一礼されていました。
私は、あの動画を見るたびに、まぶしい光の海に漂う〝民族の荘厳な悲しみ"とでもいうべき、何かを感じずにはいられません。
東日本大震災のさいの両陛下の一礼も、もちろん、まずは被災して亡くなられた方々の御霊安かれ…との祈りであったでしょうが、その時は、天の神々 地の神々・・・海の神々に向かって、「お怒りを鎮めください」という祈りも、ささげられていたのではないでしょうか。
人が祈る姿は、そもそも美しいものですが、あれほど美しく崇高な“祈りのお姿〟を、私は他に知りません。
両陛下のそのような祈りのお姿には、神武天皇以来の、祈りの経験の深みと高みが、疑縮されているような気がします。
いわば“万世一系の祈り"の一つの極致が、あの〝祈りのお姿〟なのかもしれません。(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(16)
http://matsumitsu.exblog.jp/32968640/
2023-05-04T05:04:00+09:00
2023-11-28T11:28:22+09:00
2023-03-17T17:23:43+09:00
matsuura_mn
みたみわれー皇室と国民ー
「祈ること」によって、上皇陛下、上皇后陛下は、「戦後」という時代との“戦い”をつづけてこられたのではないか、というお話をしてきました。「慰霊の旅」は、まさにその一つのかたちです。
ですから、以下は私の推測ですが、両陛下は、靖国神社に御親拝されたいという御心が、強くおありだったのではないか、と拝察します。しかし、御在位中、とうとうそれは、かないませんでした。
そういえば昭和天皇も、昭和五十年以後は、参拝されていません。
この年、いったい何が起こったのでしょう?
その年の八月十五日、当時の三木武夫という首相が、靖国神社に参拝し、そのあと新聞記者からの質問に対して、自分の参拝は「三木個人の参拝」という発言をしています。その発言の背後には「内閣法制局」の官僚がいるようですが、「戦後史」における靖国神社の苦難の歴史は、この一言からはじまったのです。
以後、新聞記者たちは、靖国神社に参拝した政治家たちに「参拝は、公人としてか、私人としてか」という愚問を、くりかえすようになり、そのたびごとに政治家たちは“いいわけ”をしなければならなくなります。
四十数年を経た今も、そのような問答がつづいていることは、ご承知のとおりです。
昭和五十四年になると、メディアが、「A級戦犯の合祀」を、問題にしはじめます。 「A級戦犯」などという名称は、占領中、GHQが勝手につくった 「罪名」にすぎません。
それは、自分たちが行った「私刑」を、合法的なもののように見せかけるためにつくられた言葉で、国内法上、靖国神社には、「戦犯」など、 そもそも祭られていないのです。
しかし、そのころになると、そういう事実も、世間では忘れられていたらしく、日本のメディアの誤った扇動に、まずは国内の反日政治家たちが便乗し、やがては近隣諸国までが便乗するようになります。
こうして、総理大臣の靖国神社への参拝は、どんどん困難な状況に追い込まれていったのですが、それを打開しようと、昭和六十年八月十五日、時の総理・中曽根康弘氏は、靖国神社に参拝します。
しかし、翌年の八月十五日は、中華人民共和国に「配慮」して参拝を取りやめる、という“腰くだけぶり"でした。
この日、昭和天皇は、 こういう御製を詠まれています。
「この年の この日にも また 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」。
この御製について、「昭和天皇はA級戦犯の合祀に反対されていて、そのお気持ちを詠まれたもの」などという〝元側近の証言"がありますが、それは、〝眉唾もの"です。
なぜなら、もしも皇室が、靖国神社に否定的になられたのなら、昭和天皇の参拝中止以後も、今にいたるまで、春秋の例大祭に皇室から勅使が派遣されているという 事実が、まったく説明できませんし、また、これも今にいたるまで、皇族方の参拝がつづいているという事実も、まったく説明できません。
そうではなく、この御製は、〝私が靖国神社に参拝できる環境が、どんどん失われていく"という「うれい」を、素直に詠まれたもの・・・と解釈すべきでしょう。 (つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(15)
http://matsumitsu.exblog.jp/32927391/
2023-04-29T00:00:00+09:00
2023-11-27T11:40:24+09:00
2023-01-20T01:07:02+09:00
matsuura_mn
みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年3月)
平成六年の硫黄島への慰霊の旅で、上皇后陛下がお詠みになった御歌の「いかばかり」のお言葉に、私は深い感慨を覚えます。
そもそも人は、生きていると、さまざまな〝苦しみ〟に出会うものです。
人にとって、それらの"苦しみ"を受け止めること自体が辛いことですが、もしも、それらの苦しみを 「誰も理解してくれない」と感じたら、その苦しみは、たぶん何倍にもなることでしょう。
しかし、たとえ誰か一人でも、〝私を理解してくれている人がいる"と感じたら、その人の"苦しみ"は、きっと何分の一かになるはずです。
たぶんそれが、人にとって、”救い”の、一つのかたちなのかもしれません。
生きている人々もそうなのですから、亡くなられている方々も、その点は同じでしょう。ですから、上皇后陛下は、「いかばかり」と〝理解〟することで、あるいは〝理解しようと努める〟ことで、硫黄島の英霊たちの御霊を、お慰めになられたのではないでしょうか。
そして英霊たちは、そのお礼に、上皇后陛下の長く失われていた「お声」を、取り戻してくださったのかもしれません。それが平成六年の〝硫黄島の奇跡〟の本質ではないか・・・と、私には思われます。
"苦しみ"をかかえる方々を目の前にした時、私たちは、しばしば自分の無力を嘆くものです。 しかし、たとえその方々に対して、具体的、物理的に何もできなくても、その"苦しみ"を"理解する"ことなら、私たちにもできるのではないでしょうか。
もちろん、そういうことさえも、日々、多忙な私たちには、けっして容易なことではありません。
しかし、たとえそうであっても、上皇后陛下の「いかばかり」という"心の姿勢"は、私たちも見ならうべきでしょう。
硫黄島の慰霊の旅のあと、上皇陛下と上皇后陛下は、海外の戦没者の慰霊をはじめられます。
平成十七年にはサイパン島で、平成ニ十七年にはパラオ共和国のペリリュー島で、平成二十八年にはフィリピンで、平成二十九年にはベトナムで、それぞれ戦没者の慰霊をされています。
大東亜戦争の戦没者は、将兵が約二百三十万人、民間人が約八十万人で、あわせて約三百十万人にのぼります。 それらのすべての御霊に対して、上皇陛下、上皇后陛下は、鎮魂の祈りをささげてこられました。
上皇后陛下の次の御歌は、平成八年にお詠みになり、翌年に発表されたものですが、私は、これは、まさしく靖国神社や全国の護国神社に鎮まる、すべての英霊にささげられたかの感がある至高の御歌ではないか、と思っています。
「海陸(うみくが)の いづへを知らず 姿なき
あまたの み霊 国護るらむ」
長い歳月が流れ、ご遺族の方々が、しだいにこの世を去られようと、そして戦後の誤った教育や報道のせいで、多くの国民が英霊たちを忘却し、あるいは冒涜しようと、両陛下だけは「あまたのみ霊」が、今も「国」を守ってくださっている・・・と信じていらっしゃるのです。
まことにありがたいことで、そのような〝心の姿勢〟は、すべての日本人が見ならうべきことではないでしょうか。(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(14)
http://matsumitsu.exblog.jp/32927389/
2023-03-03T03:03:00+09:00
2023-11-27T11:37:34+09:00
2023-01-20T00:51:17+09:00
matsuura_mn
みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年2月)
平成六年の硫黄島(いおうとう)への慰霊の旅で、上皇陛下、上皇后陛下は、深い祈りをささげられるとともに、すばらしい和歌も、お詠みになっています(ここでは上皇陛下の和歌を「御製(ぎょせい)」、皇后陛下の和歌を「御歌(みうた)」と書きます)。上皇陛下の御製は、こういうものです。
「精魂を 込め戦ひし
人 未だ 地下に眠りて
島は悲しき」
硫黄島総指揮官・栗林忠道中将の辞世は、
「国のため 重き努めを 果たしえで
矢弾尽きはて 散るぞ悲しき」
です。
どちらも「悲しき」で結ばれています。つまり、この御製は、硫黄島で散華された将兵に対する「五十年祭」にあたっての、「御嘉賞(ごかしょう/注・誉め称えてくださること)」の「返歌」なのです。
三十一文字のなかに、二つの大切な思いが込められています。
まずは、 「精魂を 込め戦ひし人」です。ここには、戦後の日本人が、忘却して久しい、英霊への敬意と感謝の心が、静かに、しかし明確に詠まれています。
戦後の日本人は、「戦争」というと、反射的に全否定しますが、もしも全否定するなら、あの将兵たちの勇戦敢闘のすべてが、“意味のないもの"になってしまうのではないでしょうか。
命を捧げて守った子孫たちから、そう思われて、英霊たちは、さぞや御無念であろう、と思われます。
また、戦後の日本人は「戦没者」というと、反射的に「かわいそう」と反応しますが、考えてみれば、それは、きわめて"無礼なもの言い”でしょう。
英霊に対して、私たち日本人は、まずは「ありがとうございました」という言葉を、おかけするべきではないでしょうか。
上皇陛下は、「精魂を込め戦ひし人」と堂々と敬意と感謝を捧げてくださっています。政治家をはじめ、すべての国民が、その御姿勢に学ぶべきですが、先の御製には、もう一つ、大切なことが詠われています。
「地下に眠りて島は悲しき」です。
硫黄島で散華された二万百二十九柱のうち、いまだに約一万三千柱のご遺骨が、帰還を果たせないまま、地下に眠っています。 北朝鮮による拉致被害者に対してもそうですが、総じて戦後の日本人は、同胞の悲劇に対して〝冷淡〟すぎる気がします。
上皇陛下は、そのような〝薄情な戦後の日本人〟に対しても、ご無念に思われているのではないでしょうか。
硫黄島での上皇后陛下の御歌も、一首あげておきましょう。
「慰霊地は
今安らかに 水をたたふ
如何ばかりか君ら
水を欲りけむ」
灼熱地獄の硫黄島の戦いで、わが軍の将兵たちは、〝渇き〟に苦しみつづけましたが、そのことを、上皇后陛下は、ご存じなのです。
古来、天皇陛下が世をお治めになることを「しろしめす」といいます。 「お知りになる」という意味ですが、「知る」ためには、学ばなければなりません。
両陛下は、硫黄島の戦いについて、よほど熱心に学ばれたのでしょう。
その上で慰霊地の「水」を見つめられた瞬間・・・、上皇后陛下は、かつての将兵たちの渇きの苦しみを、ありありと感じられたにちがいありません。
「いかばかりか」の一語が、心に染みます。(つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(13)
http://matsumitsu.exblog.jp/32779678/
2023-02-23T02:23:00+09:00
2023-11-27T11:33:13+09:00
2022-08-13T14:30:06+09:00
matsuura_mn
みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和2年1月)
欧米の方々は、何でも科学的に解明しようとしがちですが、「祈りの力」についても、それは同じです。カリフォルニア大学のランドルフ・ビルト教授によるものなど、欧米には「祈りの力」についての、さまざまな研究があります。
それらを私なりにまとめると、「祈りの力」には、およそこういう特徴があるそうです。
①時々祈るよりも、 いつも祈る方が、効果がある。
②漠然とした対象に祈るよりも、具体的な対象に祈る方が、効果 がある。
③祈る対象が、どれほど多くても、祈りには効果がある。
④祈りの経験の浅い人の祈りよりも、経験の深い人の祈りの方が、効果がある。
⑤順境での祈りより、逆境での祈りの方が、効果がある。
⑥祈りの効果は、空間的な距離には関係しない。
⑦個別で具体的な願いよりも、「最良の結果」を願う祈りの方が、効果がある。
(ラリー・ドッシー著/井上圭一・井上哲彰訳『魂の再発見』)
すべて「皇室の祈り」にもあてはまる気がします。具体的に言うと、こうなります。
皇室は、「いつも」 (①) …、すべての「国民」の幸福を (②③) …祈ってくださっています。
祈りの「経験」は、神代以来のものであり(④)…、特に「国難」の時ほど、御歴代の天皇は、神々に篤い祈りを捧げられてきました (⑤)。
もちろん、それは、はてしなく広い世界を包み込む祈りです (⑥)。
そして、⑦の「最善の結果」を願う祈りですがそれについては、上皇后陛下のお言葉が想起されます。
平成二年、今の神宮祭主・黒田清子さま(当時は紀宮内親王殿下)は、こうおっしゃいました。
「以前・・・皇后さまが、おっしゃっておいででした 『皇室は祈りでありたい』という言葉を、よく思い出します」。
その翌年、上皇后陛下(当時は皇后陛下)は、記者会見で、おんみずからのそのお言葉について質問され、このように答えられています。
「一国の道を選ぶような判断とか、その方法とか、それはやはり、その時その国の人々の英知であり、判断であると思います。それに対して、皇室というのは、常に"よかれかし"と思って、祈りつづけるのが大事なのではないか、と思ったことを、たぶんその時に… 記者会見で出たことがありましたか」
一見すると、何気ないお言葉のように見えますが、 私は、とても奥の深いお言葉ではないか、と思います。特に「よかれかし」というお言葉に、私はハッとしました。
「よかれかし」というのは、「よくなりますように」という意味ですが、そう言われると私たちは、すぐに「えっ?具体的に何が、どう・・・よくなるように?」 などと思ってしまいます。
しかし、それは「俗人」の発想なのでしょう。上皇后陛下の「よかれかし」は、たぶん個人の願望のレベルなどを、はるかに超えたもので、「すべてのことが神々の目から見て、よい方向に向かいますように・・・」という意味なのではないでしょうか。
「人の目」から見て・・・ではなく、「神々の目」から見て、「よかれかし」なのです。
わかりやすくいえば、「神々の御心のままに・・・」ということかもしれません。
これは常人には容易に到達しがたい、目もくらむほど高い信仰の、御境地ではないでしょうか。 (つづく)
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みたみわれ 皇室と国民(12)
http://matsumitsu.exblog.jp/32779665/
2023-02-11T02:11:00+09:00
2023-11-27T11:29:53+09:00
2022-08-13T14:02:55+09:00
matsuura_mn
みたみわれー皇室と国民ー
(『解脱』令和元年12月)
上皇后陛下のお声が出ない・・・・、医師たちはその原因を懸命に調べますが、わかりません。
「心因性の失語状態」というのが、その診断結果でした。
思えば、今の皇后陛下も病を抱えていらっしゃいますが、それも「ストレスを要因とする適応障害」です。 「戦後の皇室制度」は、それほど皇室に嫁された女性方に、精神的な負担を強いるものなのです。
その軽減のためにも、まずは旧皇族の男系男子の方々による宮家を新しく複数、創設する必要があるでしょう。なぜなら、正統な宮家が増えれば増えるほど、お一方おひと方の精神的な御負担も、確実に軽減されていくにちがいないからです。
さて、上皇后陛下は、お声の出ないまま、御公務をつづけられ、平成六年二月、上皇陛下とともに硫黄島へ慰霊の旅に向かわれます。硫黄島は、大東亜戦争の激戦地です。
アメリカ軍が「五日で落せる」と豪語した島ですが、わが軍将兵は、圧倒的な兵力の敵に対して一歩もひるまず、灼熱地獄のなかで勇戦敢闘をつづけ、三十六日間も守りぬきました。そのみごとな戦いぶりは今も、世界の戦史に輝かしく刻まれています。
上皇后陛下が、硫黄島の基地庁舎のなかで、遺族の方々と接見されたのは、二月十二日のことです。その時、「奇跡」が起こりました。
突然、はっきりとしたお声を発されたのです。ご回復後の第一声は、こういうものでした。
「ご遺族の方たちは、みなさんお元気でおすごしですか」。
場所が場所・・・場面が場面です。まさに「奇跡」でしょう。
祖国のために勇敢に戦い、散華していかれた二万百二十九柱の英霊たちは、両陛下の慰霊で、ようやく「神あがり」(仏教で言えば「成仏」)されたのではないでしょうか。
ですから英霊たちは、「神あがり」させていただいた皇恩に報いるため、上皇后さまのお声を、取り戻してくださったのではないか・・・と、私には思われてなりません。
その時、硫黄島で、いろいろと不思議な現象が起こった・・・という記録も残っています。
硫黄島に駐屯している自衛隊員たちは、それまで、さまざまな「霊障」に悩まされていました。 誰もいないのに、声が聞こえたり、廊下を歩く音が聞こえたり・・・などという不可解な出来事が、頻繁に起こっていたのです。
しかし、両陛下の慰霊の旅からあと、それがピタリとなくなった、といわれています。 また、両陛下の慰霊が行われたころ、夜に無数の「火柱のようなもの」が、天に昇っていくのを見た・・・という人もいるそうです(鈴木由充「嵐潮のうなばらこえてー今上陛下と祖国日本」・「祖国と青年』 平成二十一年九月号)。
そのような話を信じるも信じないも、それは個人の自由ですが、私は、「さもありなん」と思っています。天皇陛下は、まちがいなく世界最高位の「祭り主」です。
そのような方の「祈り」に、「力」がないはずがありません。
現代人は、ともすれば「祈りの力」というものを、軽視しがちですが、尊い方々の尊い 「祈り」には、人智を超えた「力」がある・・・と、私は信じています。(つづく)
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