3)
幕府と「攘夷」 『新論』の「攘夷」の思想が、その後、全国の志士たちに受容されたことは、広く知られている。ところが、学界一般では、安政5年の日米通商条約が調印されたあとは、『新論』の思想的価値は急速に過去のものになった、と見なされている。
その見解にも、根拠はある。『新論』は、あくまでも「攘夷」を実行するのは、「将軍」や「幕府」である、と主張しているからである。
つまり、その思想は、それ以後、「討幕」から「王政復古・明治維新」へと流れていく政治状況と、表面的には急速に乖離していくのである。『新論』の「長計」には、「皇孫→大将軍→邦君」などという、旧い幕藩体制の秩序意識が、繰り返し強調されており、なるほど、それでは「時代遅れ」になっていくのも、ある意味ではやむをえない。
しかし、そのような考え方を、現在の時点から見て、批判するのは容易であろうが、そのような安易な批判は、先人の苦闘の歴史を見誤らせることになる。同時代の人々の立場になって考えてみれば、もしも幕藩体制によって「攘夷」が実現できるのであれば、いうまでもなく、それに越したことはなかった…のではなかろうか。
「攘夷」が、全国的に是認されてから、むしろ国内の政治闘争は激化していく。これは、一見すると不思議なことであるが、それは思想が認知された、その次の段階として、「それでは、それを、どうやったら実現できるのか?」ということが問題になったからであろう。
そのとき、まず人々が、「できれば現在の体制によって、平穏なかたちで、それを実現したい」と考えるのは、人として当然の心理であり、文政期という時代からすれば、『新論』が、そのことを可能と見ているのは、ある意味では当然のことであったろう。
しかし、政治的な過程で、さまざまな試行錯誤の末、しだいに、それが不可能なことが明らかになってくる。その後の、明治維新にいたる歴史の展開は、要するに「それでは、それをどうやったら実現できるのか?」という問いに対する、まさしく「血みどろ」の苦闘の歴史であった、と言ってよい。
なお、『新論』について、最後に注意しておきたいことは、その「攘夷」は、何もアレルギー反応のように、欧米の文物の一切を拒絶するものではなかった、ということである。むしろ『新論』は、西洋の科学技術を取り入れて発展させる日本人の能力に、自信さえ示している。
そこには、後の「開国思想」に通じるものさえ含まれている。その点は、もっと注目されるべきことではなかろうか。
要するに私は、こう考えている「『新論』には、後の幕末維新を通じて明治に至る、ほとんどすべての政治的な理念・理想が表現されている。ただし、それをどのようにして表現するのか、という一点を除いて・・・」。
4)志士たちの「攘夷」
安政4(1857)年の日米通商条約の調印を経て、人々は「幕府によって攘夷を実現することは困難である」と感じはじめる。「朝廷」に頼る・・・「雄藩」に頼るなど、さまざまな模索がなされたが、いずれにしても「他者に頼る」と言う発想は同じである。
「それだから事態は悪化ばかりして、少しも好転しないのである」と悟った志士がいる。言うまでもなく、それが吉田松陰である。
「草莽崛起(そうもうくっき)、あに他人の力を仮りんや。恐れながら天朝も幕府、吾が藩も入らぬ。只だ六尺の微躯が入用」(安政6年4月頃・野村和作宛書簡)という言葉は、そのような意味で発せられたものであろう。愚かな左翼史家は、この言葉を、あたかも革命思想であるかのように解釈するが、それは誤りである。
同じ月、松陰は、「吾が公に、直に尊攘をなされよといふは無理なり。尊攘の出来る様な事を、拵えて差し上げるがよし」(安政6年4月・入江杉蔵宛書簡)と記している。前後の文脈から、当時の松陰は、こう考えていたと思われる。
「これまでは“他者に頼る”という方法で攘夷を実現しようとしていたが、自分は朝廷にも 幕府にも長州藩にも、すでに失望している。そんな方法で攘夷を実現することは不可能であろう。むろん私は攘夷の理想は捨てない。つまり、これからは、まず自分が、その理想を実践する・・・、そこからはじめるつもりである」。
そのような思いを理解したうえで、当時の史料を読むとき、松陰が一切の絶望をくぐりぬけて、到達した境地の“すさまじさ”が、今日の我々の胸にも迫ってこよう。
七たびも 生きかへりつつ 夷をぞ
攘はんこころ 吾れ忘れめや (『留魂録』)
その“想い”を残して、松陰の肉体は滅びる。
しかし、「自分を出発点とする」という松陰の到達した境地は、高杉晋作など、松下村塾で学んだ門人たちに伝わっていく。松陰は、「自ら死ぬ事のできぬ男が、決して人を死なす事はできぬぞ」(前掲野村和作宛書簡)と記しているが、松陰の死は、門人たちの心に火を点じたのである。
かくして、長州藩は文久3(1863)年、四か国連合艦隊と交戦する。一般には、これを、きわめて無謀、かつ過激な行動のように言っているが、私はそうは思わない。
頭の中や文章の上だけで「攘夷」を説いても、それは観念の遊戯である。実際に欧米列強の艦隊と砲火を交える、その実戦経験を通じて、はじめて人は、古い観念を「新たなかたち」に再生させる道を、見いだすことができるのである。
ここにおいて、従来の観念的・空想的な「攘夷」は、はじめて実践的・合理的な「攘夷」へと生まれかわる。その意味で、この四か国連合艦隊との交戦は、生麦事件に端を発する薩英戦争とならんで、「攘夷」という思想を再生させたものと言える。
それでは、その新たな境地とは、どのようなものであったか。高杉晋作の献策、「回復私議」には、「時運なれば不得止(やむをえず)、御権謀にて国体を不令恥様(はずかしめざるよう)我より先んじて開港すべし」(慶応元年)とある。
ここには「攘夷のための開港」という発想が明確にされている。このような大胆な発想の転換は、晋作や久坂玄瑞と交流のあった、ある志士によって、さらに鮮明な思想へと成長してゆく。 (つづく)