(「日本」・平成12年10月号)
志士に学ぶ いま私たちは、危機的な時代にいます。だれが見ても危機的な状況です。政治家も官僚も、企業も役所も、警察も学校も・・・、たえまなく不祥事が発生しています。
少年少女の心は、荒れはて、疲れはて、自殺、殺人、恐喝などの事件が毎日のように起こっている。こんな状況でも「危機ではない」などという人は、よほど鈍感か、そうでなければ、危機から目をそらしている人である、というほかありません。
このような危機的な時代を打破し、新たな時代を切り拓いていく責務が、いまを生きる私たちにはあるはずですが、そのためには、私たち自身が「時代を切り拓く精神」を身につけなくてはなりません。そこでこれから、それを、幕末の志士たちの遺文に学んでいきたいと思います。
危機を知る
「時代を切り拓く精神」の第一段階は、「危機を知る」ということです。じつは、この第一段階の「危機を知る」ということだけでも、大変なエネルギーが要ります。
弱い心の人は危機を見ても、無意識のうちに知らぬふりをするものです。心理学の用語に、「デナイアル」というものがあります。
英語で「デナイアル」といえば、「拒否」とか「否定」と訳されますが、この場合は、要するに「見てみぬふり」という状態をいいます。じつは、われわれは、ふだんの生活では都合よく、この「デナイアル」の状態におちいっていることが多い。
その状態におちいると、一番深刻な問題から目をそらし、逃げ、最後には、そんな問題に直面していること自体を忘れようとする。
それで済むことも多いでしょう。しかし、それが国家的、社会的な問題だったらどうでしょうか。むろん、それでは済みません。破滅がまっているからです。
去る六月、総選挙がありましたが、どの政党も、どの候補も、あたりさわりのないことばかり言って、ほとんどの候補者は、国防の問題など公約にしませんでした。これは、どういうことでしょうか?
今、もし北朝鮮が、核ミサイルを実戦配備して日本を脅迫してきたら、どうするのですか。また、シナの軍事力の増大は、じつに脅威というほかなく、西暦2020年までに日本周辺の海域は、完全にシナ海軍の支配下におかれる、と言われてますし、李鵬首相は、傲慢にも「2015年までには、日本という国自体がなくなっている」という発言までしています。
わが国は、まさに「なめられきっている」わけですが、残念ながら、それも当然かもしれない。わが国の政治かも、マスコミも、文化人も、老人も、中年も、青少年も・・・、要するに全国民が、この国の国防という深刻な問題について「見て見ぬふり」の状態なのですから・・・。
今は日本という国家そのものが、深刻な「デナイアル」の状態におちいっているといえますが、幕末のころは違いました、大変な時代でしたが、危機を危機と直視できる勇気ある青年たち、つまり、幕末の志士たちがいました。
橋本景岳先生は、中根雪江という人にあてた、安政3年4月26づけの手紙のなかで、こんなことを書いています。
「時勢と申すは、人の体力と神気とのごとし。医者、この二者を梏暴(こくぼう)すれば、その病人、必ず死す。執政者、時勢・人情を料(はか)らず、みだりに触犯いたし候時は、その国、必ず乱る。・・・当今、虚弱の勢ひ、加ふるに内部壅閉(ようへい)を兼居り、その上、養生よろしからず候。」
意味は、こういうことです。
「時代の流れを扱うということは、ちょうど医者が、人間の体力や気力を扱うようなものです。医者が、この二つを、過酷に扱ったり、乱暴に扱ったりしたならば、その病人は、かならず死んでしまうでしょう。それと同じで、政治家が、時の流れや、人々の心の状態を考えず、いいかげんな気持ちで、間違った政策を実行してしまったときは、その国は、必ず大変な混乱におちいります。・・・
現在の時代の流れは、人間にたとえれば、まさに弱りきって死にかけた状態で、そのうえ体内のあちこちに閉塞した部分をかかえ、さらに体に悪いことばかりしている・・・そういう状態です。」
景岳先生の深刻な危機認識・・・、感じ取れましたか。
吉田松陰先生も「危機を知る」ことの大切さを、「狂夫の言」という文章のなかで、こう説いています。
「天下の大患たる所以を知らざるにあり。いやしくも大患たる所以を知らば、いずくんぞ、之が計をなさざるを得んや。」
意味はこうです。
「今の日本は大変な病気であるが、その病気を治すために一番の困難なところは、大変な病気であるという自覚がないことである。少なくとも、大変な病気にかかっているということを自覚してさえすれば、そこから『では、どうして治療していくか』という計画もたつものを。」
つまり「自覚症状のない病気は死にいたる」ということです。幕末の志士たちの「危機」に対する感覚のすばらしさ、おわかりいただけましたか。
それでは一方、幕府がわの武士たちの意識は、どうだったのでしょうか。幕府は、やがて滅亡していくわけですから、よほどの危機意識を持っていたのかというと、じつは、志士たちとは正反対なのです。
幕末のころ、江戸町奉行の与力をしていた原胤昭という人が、後年、『戊辰物語』と言う本のなかで、こんな回想をしています。
「俗にいう『八丁堀の旦那衆』の勢いは大したものだが、奉行は与力に、与力は同心に、同心は目明し輩に仕事をまかせて、自分たちは着物がどうだの、十手がどうだの、そんな事ばかりっていた。
いざ戦争という時には、馬に乗って出陣する役向きでありながら、幕末には、もう満足に馬に乗れる与力さえ少なくなって、具足を着て馬にのったら、一歩も出ぬ中にすべり落ちた、などという話が残っている。十手を『こう振れば、朱房がぱッと開いてかっこうがよい』とか、『朱房よりは紫房の方がいい』とか、そんなことばかりいっていた。十手ふりの稽古をしては、みんな集まって、斜めに構えた十手の房が、顔の前でぱッと開くことの競技会じみた真似 などをやっていた。」
滅亡を目前にして、なお、十手の振り方のコンクールにうつつをぬかしている、それが将軍のお膝元である江戸の、治安を任された人々の、現実の姿であったわけです。
江戸の民衆も、それと似たり寄ったりというところでした。同じ『戊辰物語』には、こんな話がのっています。
「高村光雲(詩人・光太郎の父)翁の話によると、殊に町人などは呑気なもので、朝湯などで 流し場へ足をなげ出して、手拭いを頭の上へのせながら『近い中に、公方様(将軍)と天朝様(天皇)との戦争があるんだってなァ』というような話でもしあう位のものであった。これからどうしよう、などというような考えなどは、持つ者もなかった」
幕府の役人も江戸の民衆も、国の民衆も、国の運命など考えてはいませんでした。それは、たぶん他のアジア・アフリカ諸国も、同じような感じであったか、と思われます。
しかし日本にのみ、鋭い危機意識を持った志士が、ほんの少しいた。司馬遼太郎氏は、志士といっても、その名に価する人は三千人くらいではなかったか、といっていますが、当時の日本の人口は、約三〇〇〇万人ですから、それは全人口の〇.〇一パーセントにすぎません。
日本人の大多数は、無責任でノンキで、危機意識ゼロであったということになりますが、その〇.〇一パーセントの危機意識を持つ人がいたことが、他のアジア・アフリカ諸国と、日本の運命を二つに分けることになるのです。問題は、現代において、その〇.〇一パーセントにあたる人がいるのかいないのか・・・、日本の未来の運命は、そこに帰着するのではないでしょうか。(つづく)