(「教育再生」・平成19年4月号)
しき嶋の やまと心を 人とはば
朝日ににほふ 山さくら花
作者 本居宣長 本居宣長は、江戸時代を代表する学者というばかりではなく、わが国の長い歴史を通じてみても、最高級の大学者です。一般には、『古事記伝』の大著を完成させ、皇学(国学)という学門を大成したことで知られてます。
「しき嶋」というのは枕詞、「にほふ」というのは「色美しく照り映える」という意味ですので、歌意はこうなります。
「もしも誰かから“宣長先生、日本の心とは、いったい、どういうものでしょうか?”と問われたらなら、私は“それは、朝日に照り輝く山桜のようなものです”と答えるでしょう」。
まだ肌寒い、早春の暁闇を想像してみてください。静寂につつまれた世界で、東の空が、ほのかに色づきはじめます。世界は、みるみる新鮮な光に満たされてゆき、その眩しさの中に、厳かにして慕わしい、華麗にして清楚な、満開の桜が咲き誇っているのです。
もしかしたら、かすかな風に、すでに花はハラハラと、小雪のように散り初めているかもしれません。
そういう光景に出合ったとき、日本人なら誰でも、魂を奪われるような思いがすることでしょう。感性の豊かな人ならば、その光景の中に、自分の心身が美しく解け入ってゆくかのような、そんな甘美な一瞬さえ、感じることができるかもしれません。
「日本の心とは何か?」。その問に、歴史や文化、そして信仰、学門、道徳、芸術などの面から、無数の事象を取り上げ、難解な論理を重ね、それを何万巻もの書物にすることも可能でしょう。
しかし、いくらそんなことをしてみたところで、その答えを語りつくし、言いつくすことは…、たぶん永遠にできないと思います。
その問に宣長は、ただ一言「朝日ににほふ山さくら花」と答えました。なるほど、百万言を費やさなくても、もうそれで十分…という気もします。
清々しく、慎ましく、ほのかに暖かい光をまとった桜…。そして夢のような一瞬の煌きだけを残し、この世への未練なく、いさぎよく散ってゆく桜…。
そういう桜を、わが国の人々は古来より、愛してやみませんでした。わが国の人々が「美しい」と感じるもののすべてが、桜に集約されているのかもしれません。しかし、それは同時に、それに反するものすべてを、わが国の人々が「醜い」と感じる、ということでもあるのでしょう。
春が来るたび、私は桜から、多くのことを教えられる思いがします。(了)