(「産経新聞」 三重版 ・平成18年11月29日)
去る10月22日、「日本教育再生機構」という民間シンクタンクが設立され、東京の「六本木ヒルズ」で第一回の「教育再生・民間タウンミーティング」が開催された。(産経新聞東京本社版に詳報)。その帰途の車中、私は知人の学習塾経営者と歓談していたのであるが、話の途中、ふと、「学習塾にイジメはありますか?」と聞いた。意外な質問だったらしく、一瞬驚かれたが、すぐに「それは、ないですね」と明言された。むろん、学習塾も様々であろうが、イジメが"常態化"してしまった今の全国の小・中学校と比べてみれば、その違いは歴然としている。
なぜそれほど違うのか?まことに単純な話で、学習塾に対しては「拒否する自由」「選択する自由」が行使できるからである。イジメというのは、基本的にそれらの自由がない閉鎖的な世界で凶悪化する。共産主義・社会主義を奉じる一党独裁国家で、しばしば行われてきた残酷な「粛正」は、その最たるものである。自由主義の諸国でも、刑務所など、閉鎖性の高い世界ではイジメが凶悪化しやすい。
現在の義務教育制度も、「拒否する自由」「選択する自由」が基本的にない・・・という点では似ている。何かというと「国家権力による強制」に反対する「センセイ」たちが、義務教育制度という戦後最大の「国家権力による強制」に対し、何の批判もしないのは自己矛盾というしかない。
現実の義務教育制度には、基本的に「学校や教師を変える自由」も、「学校や教師を選ぶ自由」もない。まるで戦時体制下の「配給制度」であるが、現在の窮屈な義務教育制度は、実は昭和16年、国家社会主義を掲げる全体主義のナチス・ドイツの真似をして発せられた「国民学校令」に由来するので、どこか両者が似ているのも、あるいは当然のことなのかもしれない。
「自由化したら学力低下が進むのでは?」というのは、杞憂である。私は「勉強の義務」自体を否定しているのではない。むしろ逆で、私は一定の年齢に達したすべての子供には、年齢に応じて全国テストを課し、それに合格することを法的に「国民の義務」にすべきである、とさえ考えている。国には、年齢に応じた学習目標の"設定"と、その目標到達度の"検査"を徹底的にやってもらう。
ただし、勉強する"方法"は、子供や保護者の自由とする。「これまで通り学校に行く」という人もいれば、「いや学習塾に行く」という人もいよう。「勉強の義務」を果たすのであれば、どちらでもよく、むろん「官立民営」の学校もあってよい。ただし、さまざまな事情で「勉強の義務」を果たさない(果たせない)子供たちもいようから、そんな時こそ、国がもれなくフォローし、これまで通り公立学校で勉強させるのである。いわば公立学校の「セーフティーネット」としての役割を果たしてもらう。
こういう提案をすると、今度はすぐに「保護者の経済格差が学力格差につながるのでは?」という疑問を持つ向きもあろうが、これも杞憂にすぎまい。「公立はタダ」という驚くべき錯覚で、現在も毎月1人当たりで、小学生で約8万円、中学生は約9万円、高校生は約10万円もの「税金」が投入されている。これを「バウチャー(教育権)」として直接、保護者に配布する。そして、それを国が認可した教育機関(公・私立学校、学習塾など)ならば、「どこで、どう使おうと自由」とすれば、自由競争の原理が働き、より質の高い教育が、より安価で提供されるようになる。
経済的格差による教育的格差の拡大は、逆に是正されるわけであるが、自由化・民営化の利点はそれだけでない。それが進めば、特に都市部では税金から支出される「教育費」が大幅に削減できるので、全体の支出が抑えられ、予算に余裕が生じ、それを採算の合わない地方への「教育の地方交付税」として回すことも可能となるのである。
ともあれ、今も、全国の子供たちは毎日、学校という名の「戦場」へ「召集」され、そこで次々と命を落としている。「子供たちを戦場に送るな」と叫んでいた日教組の「センセイ」たちは、こんな非常事に、どこで何をしているのだろう?近ごろ国会周辺には、学校も生徒も放り出して全国から集まり、「教育基本法改悪反対!」で座り込みを続けている日教組の「センセイ」たちが山のようにいるらしい。呆れ果ててものも言えない。