三重県公立中学校教諭
渡辺 毅
(「日本」 ・平成16年2月)
日教組教育と奮闘する皇學館、という”麗しき誤解”
本書が出たとき、著者(松浦光修氏)とよく学会で顔を合わせるある教授が、こんなことを言って、驚いていたという。
「松浦先生は、こんなこと(日教組批判)もなさっていたんですか。私はてっきり母校(皇學館)出身の先生たちが県内で日教組からイジメられているから、それに義憤を感じて立ち上がったとばかり思っていたんですよ。ぜんぜん違っていたんですね。いや、びっくりしました」
著者は苦笑いしてこの話をおしえてくれたが、どうやらこの教授は、三重県内で日教組教育に対して奮闘する皇學館出身の先生たちがいて、それを救おうと著者が立ち上がったという”麗しき誤解”をされていたのである。
残念ながら、県内での日教組支配が確立して以来、公立学校において「日教組教育に対して奮闘する皇學館出身の先生たち」は存在しなかった。存在しないどころか、むしろ国旗国歌反対を学校で一番熱心に唱えていたのが、皇學館出身の先生たちだった。そして本書の中で指摘されているように、彼らは日教組に加入するだけでなく、積極的に奉仕しようとしていた(現在も)のである。
皇學館の学園報「K-らいふ」(第116号 平成11年6月発行)に掲載された特集「卒業生奮闘記」に、三重県内で教職に就いているある卒業生が、自分の「経歴」に、次のような役職名を書いていた。
「三重県教職員組合三泗支部書記次長など”縁の下の力持ち”役をさせていただく」
「活躍する皇學館の卒業生」と「三重県教職員組合賛三泗支部書記次長」の取り合わせは、私には何とも奇異に感ぜられた。しかし、この卒業生にとって、「書記次長」は記述するにたる経歴であったのである。”縁の下の力持ち”というのは謙虚であり、三重県教育界で「書記次長」は、もうりっぱなステータスなのだ。そういえば、先頃教科書汚職事件で捕まった尾鷲市教育長も、かつては「書記次長」を務めていたことがあったそうである。
ちなみに、私事だが、この卒業生の後に私もこの「奮闘記」への寄稿の依頼を受け、拙文を送ったことがある。このとき、私は同じ「略歴」部分に「現在、三重県において教育正常化運動を展開中」と記しておいたところ、掲載時には、その部分のみがなぜかカットされていた。本人への承諾確認なしに、である。
本気で「皇国の道義」を実行してはいけない?
三重県教職員1万3千人中、約1千3百人が皇學館出身者である。三重大に次ぐ学閥を構成しているのだが、その99パーセントが日教組に加入しているわけである。著者と敵対し、「いいかげんにしろ」と叫ばざるを得なかった日教組の主要構成員が実は皇學館出身教員だった、というのはお粗末な話である。しかも、このまま日教組批判を続ければ、学生募集・教育実習・教員採用で不利になるぞ、と大学を脅迫したのも皇學館出身者だった、というのだから、情けないの一語に尽きる。
戦後教育や日教組批判のできる卒業生を輩出できなかった「これまでの皇學館の”教育力不足”」について、著者は自己反省の弁として語っているが、日教組への忠誠の証として母校に脅迫文を送りつけるなどという卑劣漢が出たというのは、それ以前の問題であろう。
卒業生から脅迫文を送られ、当時の皇學館責任者・N氏はこれに震え上がり、著者を呼び出し「批判を控えよ」と迫ったという。脅迫という不正義にN氏は、断固としてNO,とは言わなかった。皇學館は、道義を重んずる学校ではなかったのか!日教組の脅しに縮み上がったというのでは、皇學館の面目が立たない。皇學館には逆に、日教組を震えあがらせるほどの力と気概を持ってもらいたいものだ。
ただ救われるのは、同じ県下の鈴鹿国際大学のように、三重県人権センターの展示内容を批判した久保景憲一教授に、外部の圧力に怯えて辞職勧告をつきつける、という最悪の事態までには至らなかったことだ。しかし、これも著者のような知恵と胆力を持たない者でなかったならば、N氏とのやり取りの仕方によっては話がどうなっていったか分からない。ともかくも、皇學館の威信と名誉は、著者の力によってなんとか守られた。
皇學館の建学の精神は、邦憲王(くにのりおう)令旨に示された「皇国の道義を講じ、皇国の文学を修め、之を実際に運用せしめ」ることである。これを本気に真面目に行えば、日教組との対立は当然余儀なくされる。しかし、N氏には、本気で「皇国の道義」など実行してはいけない、そんな大人気ないことをして入学者を減らしたらどうするのだ、事を荒立てず共存してけばいいのだ、というそんな「大人」の打算が働いていたのではないのか。
保身に走る神社関係者
しかし、この「大人」の打算は、N氏に限ったことではなかろう。以前私は依頼されて拙文をある神社関係誌に寄せたことがあるが、編集者から掲載を見合わせてほしい、と断られたことがある。その後、本誌平成13年12月号に「同和教育の現状と課題」として掲載ー。それは、拙文の中に同和教育を批判した部分があり、「氏子さんの中にも、地区の方がみえるので」というのが、その理由であった。
拙文の中で、私は同和地区の人たちを批判したり、中傷したわけではない。中身は同和教育の中にみられる「反天皇教育」を批判したに過ぎない。しかし、その編集者は、「反天皇教育」批判の必要性よりも、氏子さんからの苦情ーあるのかないのかはっきりしないがーを優先したのであった。
神社の今後の維持発展を望むならば、天皇や国旗国歌、歴史教科書、靖国神社など避けては通れぬ問題がある。氏子さんの中には、当然神社側の主張と対立的な意見を持った人たちがいるだろう。しかし、対立や戦うことを恐れ、言うべきことを言わず、やることを実行しなければ、神社の存在は危うい。現に、今「祭りに差別がある」と学校で教えられ、靖国神社が訴えられるという”神社攻撃”が各地で行われているし(「神道が危ない!本誌平成14年12月号)、神宮のお膝下である「伊勢市が、じつは「日教組王国」の「首都」だった」とまで言われているのである。
神社は「こころの故郷」なのだからと楽観するのは、先人の努力を顧みない不遜な心構えといえよう。神社は、自然に「こころの故郷」になったわけではない。先人たちの数百年にわたる地道な布教活動などによって、そうなってきたことを肝に銘じなければならない。台湾人の金美齢氏が「いまの神社関係者は保身に走って対外的になっていないのではないか」(「神社新報」平成15年9月8日)と語っていたが、見ている人はたとえ外国の人であっても、よくみているのである。
本気で「皇国の道義」を実行せよ
日教組との戦いの最中、著者はよく「反日を捕らえてみれば皇學館」「反日頭をたたいてみれば倉山会(皇學館卒の三重教職員の親睦会)の音がする」などといった川柳や、気晴らしに書いたという日教組をパロディー化した戯文を書き送っては、私の気持ちを和ませてくれた。得てして、告発本といった種の書物は、殺伐とした雰囲気や悲壮感が漂うが、本書にはそうした印象が感じられない。それは、むきにならず、心に余裕をもって日教組と対峙し、以前私を楽しませてくれた戯文のように、相手の矛盾や間抜けた行動を優雅に茶化してみせる著者独特のレトリックが、本書の随所に表されているからだろう。
本書は、もちろん類書にみられない無私の精神や道義心から起こされた著者自身の行動記録なるがゆえに、人の心を打つのだが、そうした文章の旨みも相俟って、県下第二位(平成15年1月現在)の売れ行きを博しているのである。
昨年の11月、著者は「大国隆正の研究」によって、国学院大学から学位を授与されている。同大学より皇學館国史学科の教師に学位が出されたのは、43年振り、田中卓博士(皇學館大学名誉教授)以来のことだという。戦後皇學館大学が私学として再興されて以来、国史学科卒業生が他大学から学位を取得したのは著者が初めてである。同窓の卒業生としてご同慶の至りだが、本書で述べられている激烈な戦いや運動を展開していた一方で、自らの専門の学門研究についても、一流の業績をあげた著者の超人的な仕事ぶりには脱帽である。
現在私は著者の厚意と協力を得て、十数名の皇學館の学生たちに生徒役をつとめてもらい、拙著「道徳の教科書」(PHP研究所)を使った道徳の授業研究を行っている。学生たちが協力してくれるのも、その学生たちから心酔されている著者が、いつも彼らに声をかけてくれるからである。彼らは著者の学門と道義の実践に共鳴し、「この(松浦)先生は違う、と思いました。」と口々に私に語ってくれた。
本気で「皇国の道義」を実行せよ、と学生に教え、自らそれを実践してみせる、そんな著者だからこそ、学生はついてくるのだろう。教え子は敏感である。口から出まかせの「皇国の道義」など、すぐに見抜いてしまうのである。
三重県の教育正常化は、やはり真の皇學館の教育にかかっている。「三重県内で日教組教育に対して奮闘する皇學館出身の先生たち」が本当に育てられて、それは進むのである。そして、著者こそが、そういう「先生たち」をこれから育てていってくれるのだと、私は確信するのである。