(『解脱』 平成21年7月)
〝知る〟方法は、二つある
神話や物語というものは、それを読む人の心によっては、いくら汲んでも、あふれてやまない清らかな泉の水ように、私たちに、さまざまな〝教え〟を与えてくれるものです。
けれど、それは逆から言えば、人の心しだいでは、何の教えも与えてくれないもの…ということでもあります。
人が何かを「知る」というのは、そもそも、なかなかむずかしいことです。今の人々は、「イエス」か「ノー」か、あるいは「○」か「×」か、と単純な考え方に、ほぼ支配されています。
ですから、「知る」ということについても、そういう考え方で、サッと割り切って、それで「終わり」にしてしまいがちです。けれども、「知る」ということが、そう簡単なものではないということは、少し考えてみれば、よくわかることではないでしょうか。
たとえば、長年、家族や友人として過ごしてきて、じゅうぶん「知っている」と思っていた人たちの心が、何かの出来事をきっかけとして、「よくわからなくなる」ということがないでしようか。それはたぶん、皆さんが「その人〝を〟知っている」と思い込んでいたけれど、じつは「その人に〝ついて〟知っている」だけだった…ということかもしれません。
「…を〟知っている」というのと、「・…に〝ついて〟知っている」というのは、かなりちがいます。
その二つが、どれぐらい違うかというと・・・たとえて言えば、お風呂を「見ること」と、お風呂に「入ること」くらいのちがいはあるでしょう。
人が、ものごとを「知る」ための方法は、大きくわけて二つあるといわれています。お風呂の話を出したついでに、ここではその二つの違いをお風呂の「適温」ということを例にして、ちょっと考えてみたいと思います。
ある人が「人体にとってのお風呂の適温は、何度から何度まで」という「知識」を頭の中に入れていた、とします。
これは、「適温に〝ついて〟知っている」人です。
けれども、ただ「知識」を頭の中に入れているだけでは、目の前のお風呂が「適温」かどうかは、永遠に「知る」ことができません。その人が、温度計をお風呂に入れて計測して、はじめてそれを「知る」ことができます。
けれども、「知識」だけの人も、温度計を入れて針測する人も、どちらも目の前のお風呂のお湯に、指一本触れていない、ということでは同じです。ですから、これらの場合は、どちらにしても「適温に〝ついて〟知っている」という状態にある…といえるでしょう。
ところが、私たちが、お風呂の「適温」を「知る」ための方法は、もう一つあります。いうまでもありません。
自分の手を、お風呂にザブンと入れて「知る」という方法です。
「知識」はなくても、「温度計」はなくても…、それだけで、すぐに「適温」かどうかわかります。
これが「適温〝を〟知る」ということです。
「適温」の知識をもっていて、それをもとに温度計を入れて「知る」という方法は、いわば「分析」して知る方法です。
今の人々は、「分析」して知ることだけが、「知る」ための唯一の方法だと、思い込んでいるフシがあります。しかし、世の中には、むしろ直感で「知る」ことの方が早くて正しい…という場合が少なくないのです。
同じことは、他のことでもいえるしょう。
たとえば、信仰もそうです。
「信仰に〝ついて〟知っている」ことと「信仰〝を〟知っている」こととは、じつはかなり違います。
それなのに、ともすれば今の人たちは、その二つを、頭の中でゴチャ混ぜにしている人が、少なくないようです。(つづく)