(インタビュー・『明日への選択』平成20年12月号)
幕府批判を可能にした大政委任論と復古論
松浦 もちろん、こうした庶民の思想だけで、「尊皇思想」が形成されていったのではありません。庶民のあいだにある雰囲気を、思想として形のあるものにしていくには、やはり学問が必須でした。
卑近な喩えですが、「尊皇思想」を豆腐だとします。天皇に対する庶民の敬仰の意識は豆乳です。
豆乳を固めて豆腐にするには、「にがり」が必要なように、天皇や朝廷へ民衆の思いを固めて「尊皇思想」にするために、「にがり」の役目を果たしたのが、崎門学、水戸学、国学(皇学)などの尊皇の学問です。
江戸時代は、幕府が全面的に統治の実権を握っていたのですが、その正統性がどこにあるのかという議論は、大きく変化しているのです。江戸時代の中期までは、実力で天下をとったわけですから、徳川家はまるで中国の“覇王”のように考えられていました。
江戸中期の儒学者である新井白石にも、徳川家は覇王であるというような意識がまだ残っていて、実際、白石は、家康公が中国の「湯王・武王」のごと「放伐によって添加を平定した、などと言っています。
もむろん、そうした“空気”のなかでは、幕府批判、将軍批判などは、あり得ないことでした。
そのような「覇王意識」が主流であった時代…、これは、白石より前のことですが、山鹿素行などは、“徳川家は大政を朝廷から委任されているのだ”と説いています。
そうしたなかで、やがて「覇王意識」が廃れていき、十一代将軍の家斉の頃になると、のちの老中の松平定信は、家斉に対して、「天下は、天朝よりの預かりものですから、自分のものだと思わないでください」と、将軍の心得を説くまでに変化していくのです。
これは「大政委任論」、つまり“幕府は朝廷から政治を委ねられている”という考え方です。
幕府という政治体制を肯定する考え方ともいえ、中途半端だとする向きもありますが、人々の意識を動かし、時代を進めたという点で、私は評価しています。
というのも…、幕末になって外国の脅威が意識され、攘夷運動が高まってくると、“せっかく大政を委任されているのに、幕府はきちんと仕事をしていないではないか!”という主張が、出て来るようになるからです。
また、“将軍は朝廷から「征夷大将軍」という役職をもらっていながら、征夷すなわち「攘夷」を実行していない、仕事をきちんとしろ”という幕府批判にもつながってきます。
つまり、「征夷大将軍」の「夷」は、幕末になって、白人諸国を意味するようになったのです。こうした幕府批判が可能になったのも、ある意味では、「大政委任論」という考え方が広く浸透していたからではないか…と思います。
━━━ 尊皇思想というと、国学(皇学)というものを思い浮かべるのですが、こちらの方は、どういう役割を果たしたのでしょうか。
松浦 先にもふれたように、尊皇思想の源流となったのは、江戸前期の儒者であり神道家の山崎闇斎が創始した崎門学です。この学統につらなる学者が水戸に招かれ、水戸藩は一つの巨大な「シンクタンク」のようになる。
特に『大日本史』の編集で知られる水戸光圀は、大金を投じて優秀な学者を育てていくのですが、その一人が、契沖という人でした。契沖が光圀の依頼によって『万葉代匠記』を書き、これによって、『万葉集』の解読が画期的に進み、それが元になって、国学(皇学)の流れが出てくるのです。
その契沖の本を読んで、目覚めていったのか『古事記伝』を著した本居宣長です。宣長は賀茂真淵の弟子ですが、宣長が神道に開眼するのは、契沖の本を読んだことがきっかけになっています。
ちなみに、教科書などでは国学(皇学)は、荷田春満から始まる、とされていますが、これは平田篤胤以降の“偏見”にすぎません。国学(皇学)の本当の元祖は、契沖である…と、私は考えています。
それでは、こうした契沖、真淵、宣長らの学問は、のちの時代に、どういう影響を及ぼしたのでしょうか。当時の儒学者は、日本の古代は、ただただ野蛮な時代だ、と捉えていた人が少なくありませんでした。
外国から儒学の書物がもたらされて、それで初めて日本は文明化した、というのが儒学者の歴史観でした。その意味で、当時の儒学者は、「西欧と較べて日本が遅れている」と考えた近代の知識人に似ています。
それに対して契沖や宣長は、『万葉集』や古事記の研究を通して、シナよりも、古代の日本の方が立派な国てせある…と説いた。
むしろ、日本においては、古代は「仮名遣い」などにも、きちんとした法則性があったのに、外国からの文化流入のせいで、中世から文法が乱れたと、考える。そして、“日本の古代は、きちんとした日本の言葉が話されていという点で、今よりも正しい時代である”とも考えた。
だから、「もとの日本」へ戻らなくてはならない。
こうして、「復古」という考え方が出てくるわけです。
ただ、国学(皇学)も水戸学と同様に、政治体制の考え方としては大政委任論でした。しかし、「復古」という考え方でいけば、古代に「公地公民」という概念があったことを連想させます。
天皇と民衆が、直接結びついていた時代があった、という記憶がよみがえるわけです。
そのようなことも、幕府や諸藩による統治というものを乗り越える、新しい統一国家像を準備した、といえるでしょう。(つづく)