(インタビュー・『明日への選択』平成20年12月号)
「日本は道義国家」という認識
――――― そうした危機感が高まっていたなかで、嘉永六年(1853)にペリーが、四隻の黒船を率いて、浦賀にやってきて、攘夷論が一気に高まっていった、ということですね。
松浦 ペリーの来航が当時の心ある人々に与えた衝撃は、それ以前の外国船来航の衝撃とはちがいます。
それ以前は、幕府の役人が出向いて“長崎に回れ”と言えば、おとなしく、それに従って、交渉が終われば、帰っていきました。
ところが、ペリーは全く幕府のいうことをきかず、大砲をぶっ放しつつ、江戸湾に侵入します。
しかも、“戦争も辞さず”という強硬姿勢を示し、“国書を受け取れ、受け取るまでは帰らない”などと居直った。
それで、“こいつは…、今までの外国船とはちがう”ということを、日本側も理解したのです。
ペリーは、今までの外国使節のやり方を見ていて、“アジアの黄色い猿どもは、一発脅してやらないと、言うことを聞かない”というような、人種差別的な発想で、日本にやってきていました。
そうした理不尽な脅しに対する抵抗運動として、攘夷運動が一気に高まっていったわけです。
一方、「攘夷思想」には自分たちの利益のため、という発想はもちろんあるわけですが、じつは、その底に、もう一つ思想がある。
『新論』でいうと、“日本は、天照大神・神武天皇以来、道義を守って、今日まで一回も革命が起こらず、天皇を戴く体制がつづいている。その道義国家が、武力で他国を踏みつぶすような、野蛮な外国に、負けてはならない”という考えです。
さらには、“わが国のような道義国家が、もしも外国に潰されることになれば、人類の不幸でもある”…そういう、文明史的な発想もあった。
単なる嫌悪感情や、自国の利益だけであれば、幕末の志士たちも、あれほど懸命になれなかっただろう、と思うのです。
“道義の国である日本を守ることは、すなわち人類の道義を守ることである”という信念があったから、だからこそ、あれだけの奮闘もできたのではないか、と思います。(つづく)