(インタビュー・『明日への選択』平成20年12月号)
世界が見えていた攘夷論者
―尊王攘夷をきちんと理解しなければ、明治維新も本当に理解できないということですね。
松浦 その通りです。そもそも「尊王攘夷」と、一般に呼ばれているわけですが、現実の動きとしては吉田松陰にしても「攘夷」の方が先なのです。
江戸後期から幕末にかけての先覚者は総じて、外国船の脅威に直面して、まず「攘夷」で対抗しなければいけない、と起ち上がり、その後で、“では、何を護るのだ”という問いに直面し、天皇を戴く日本の国体…、つまり尊王へと目覚めていったのです。
その攘夷ですが、一般にはペリー来航以来というふうに語られていますが、そうではありません。
十八世紀末の寛政の頃から外国船が日本近海へ出没し始め、日本人を恐怖に陥れていた。
十九世紀の初頭にはロシアのレザノフが択捉島や樺太に上陸して略奪や放火などを行い、“ロシアは東北地方を占領するらしい”という、流言飛語が江戸の町にも伝わります。
そうした中で「攘夷思想」が形作られていくわけです。
よく知られていることですが、「攘夷思想」の中心となったのは水戸藩で、「攘夷思想」を理論的に体系化したのは、会沢正志斎の『新論』です。
なぜ水戸藩が攘夷論になったか、というと文政七年(1824)、同藩の大津浜に、イギリス人が上陸するという事件が起こり、以降、対外的な危機を、肌身で感じるようになったからです。その事件に刺激を受けて、『新論』は成立するのです。
これは、アヘン戦争の二十年も前のことです。
当時、日本に出没する外国船について「あれは商船で平和的な存在だ」とか、「単に水や薪や商売を求めにきただけで、侵略の意図などない」などと、平和ボケした本も書かれています。
つまり、いつの時代にも、わが国には、「何とかなるはず」とか…「彼らに悪意はない」とか、そういう“脳内お花畑”の人々や“お人よし”の人々がいたわけです。
そのような俗論に対して、正志斎は“そんなことはない、世界の情勢をみろ。彼らは本当に、わが国を取りに来たのだ。日本は、高度な防御態勢を整えなければならない”と説いたのです。
その『新論』は多くの人に読まれます。なぜか?
それは当時の人々が抱いていた危機感に対して、“こういう方法で、わが国は危機を解決できる”という筋道と、具体的な「処方箋」を示したからです。意外に思われるかもしれませんが、外国の技術を取り入れる必要があるということも、『新論』は説いているのです。
例えば、戦国時代に鉄砲がわが国に伝来したけれど、わが国は、すぐそれを上回る性能の鉄砲を作った。だから外国の武器を取り入れていけば、わが国は、必ず外国を圧倒することができようになる…というぐあいで、つまり、いわば“開国攘夷”を説いているのです。
―攘夷というと、テレビでは、頑迷固陋な排外主義というイメージで描かれ、水戸藩、とりわけ藩主の徳川斉昭は、そのシンボルのように扱われるわけですが、実際は違うということですね。
松浦 排外主義どことか、当時の水戸では洋学が盛んで、そのことを研究した『水戸の洋学』という学術書さえ出ているほどです。実際、水戸藩は対外情勢に関する最新の情報を持っており、斉昭は、今でいう一種の“戦車”を作る構想さえ持っていた、といわれています。
しかも、斉昭は幕閣に入っていたので、日本国内の最新情報も持っていた。さらに斉昭は、宮廷の中枢にいた近衛家と親戚ですから、そうした情報も、直に孝明天皇に知らせていました。
ですから、孝明天皇が、「海外の情報を知らずに頑固に攘夷を主張していた」というのは、全くのデタラメで、むしろ斉昭ルートによる最新情報にもとづいて、「攘夷」という一線を、断固として護られていたのです。
つまり、現実を知らずに、単に駄々をこねていたわけではなく、現実を知った上で、“安易に外国に妥協してしまえば、清国の二の舞になって、取り返しがつかなくなる”と、お考えになり、勇気を奮って、独立国としての筋を通された、と見るのが正しいでしょう。
(つづく・全五回)