(『日本の息吹』 平成25年 4月号)
経済政策でロケットスタートを切った安倍政権。重要政策のひとつ、教育改革も着々と進行中。期待されるそのなかみとは―
皇學館大学教授 松浦光修
新・安倍政権の動きを「安全運転」としか見ない向きもある。そうであろうか。
その政策の「柱」は「経済再生」と「教育再生」といわれているが、それらの改革は今、かなりのスピードで進んでいると、私には思われる。
以下、「教育再生」の動きに限って、その諸政策が今どれほど進みつつあるのか、その一端をご紹介したい。
〇「道徳の教科化」が意味するもの
自民党が野党であった平成24年1月、すでに下村博文氏を本部長とする自民党の「教育再生実行本部」は、来る新政権の「柱の政策」として、まことに目覚ましい教育再生プランに満ちた「中間報告」を発表している。
やがて12月の総選挙で自民党が大勝すると、その下村氏が、文部科学大臣・教育再生担当大臣に就任する。「教育改革の司令塔」となるのは「教育再生実行会議」で、第1回目が1月24日に、第2回目が2月15日に、第3回目が2月26日に、それぞれ開催され、今後も毎月2回のペースで議論が進められるという。
1回目も2回目も、首相は最初から最後まで出席し、3回目の会合では、早くも首相に「第一次提言」が提出されている。
「教育再生実行会議」は、一見すると多様な議題を掲げているが、私の見るところ、まず実現に向けて本格化するのは、「道徳の教科化」と「教育委員会の抜本的見直し」ではないか、と思われる。じつは「道徳」は、戦後一貫して正式な「教科」ではなかった。
そのため「道徳」の」時間は、これまで日教組の構成員たちによって、さんざん悪用されてきた過去がある。「道徳の時間」が、露骨な「反日教育の時間」に」化けている地域さえ少なくない(拙著『いいかげんにしろ日教組』参照)。
〇「道徳」が「教科化」されると、何が変わるのか?
ふつうに考えていくと、まずは「道徳科」の「教科書」の作成と、その「検定」が必要になろう。そのあと大学の教員養成課程で、学生が「道徳科の教員免許」を取得するための講座開設も必要になるはずであるが、むろん、今の教員養成系の大学に、「この人なら道徳科の教員免許を出す資格がある」という教師が、どれほどいるのか…、という点については疑問が残る。
したがって、「道徳の免許化」の早急な実現は困難であろうが、まずは「道徳の教科化」を断行しなければ、事態は一歩も前に進まない。政府がそれを断行すれば、やがて「道徳の免許化」も実現し、その免許の取得が「教職必須」となる日も来よう。
もしも、その免許を出せるか否か、という一点で “大学間競争” が激化するのであれば、それによって、わが国の教員養成系大学の “正常化” も実現されていくのではなかろうか。
〇「教育委員会の抜本的見直し」が意味するもの
現在の「教育委員会」は、多くの場合、民間人で非常勤の「教育委員長」が “かたちの上” でトップであるが、事実上のトップはほぼ教員出身の「教育長」である。しかも「政治的中立」という免罪符をふりかざせば、「教育長」は、選挙で選ばれた首相や議会の意向さえ無視できる。
「教育再生実行会議」は、この歪んだ教育行政の構造も、抜本的に是正しようとしている。私としては、とりあえず「教育長」の「任免権」を首相が掌握する制度にすればよい、と思っている。
そのような改革が実現すれば、 “地方教育行政の最高責任者は首長” ということが、はっきりとする。したがって地域住民の声を無視し、日教組の言いなりになっているような首長は、選挙で落選してもらえばよい。
むろん、これは諸刃の剣で、「サヨク首長」が誕生して、地域の教育を壟断するという可能性もあるが、それは、文科省の「監督権限」を強化することで阻止できよう。イギリスでは、国の「教育水準局」が全国の学校に目を光らせ、改善が見られない学校は「廃校」にする権限さえもっている(中西輝政監修『サッチャー改革に学ぶ 教育正常化への道』)。
紙幅の関係上、二点にしぼって論じたが、安倍教育改革は、まだ着手されたばかりである。
あるいは、それらの諸改革も、じつはよりスケールの大きな教育改革への「序章」にすぎないのかもしれないが、(下村博文『下村博文の教育立国論』参照)、政府も国民も「あせり」は禁物である。
いずれにせよ、悪しき「戦後教育」に引導を渡し、新たな教育の地平を伐り拓けるのかどうか…、その「一戦」の火蓋は、すでに切られている。
「皇国の興廃」に直結するその「一戦」の ゛勝利‟ を、心ある日本人なら、祈らずにはいられまい。(おわり)