石灰の壇 「天皇の御本務は祈りである」というのは何も私が勝手に言っていることではありません。
それは、古代から現代まで、天皇ご自身も、その周りの人々も、ずっとそう信じ、行ってきたことです。
そもそも初代の神武天皇からして「天神(あまつかみ)」を熱心にお祭りされています。
資料1を御覧ください。
資料1 神武天皇の「祈り」
「天皇、前年の秋九月を以ちて、ひそかに天香具山(あめのかぐやま)の埴土(はにつち)を取りて八十(やそ)平瓮(ひらか)を造り、みずから斎戒(ものいみ)して、もろもろの神たちを祭り、つひに区下(あめのした)を安定(しず)むることを得たまふ」(『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前記)
(松浦・訳)「神武天皇は、前年の秋の九月に、ひそかに天香具山の埴土をとって、神聖な平たい土器の器をつくり、おんみずから身を清めて、さまざまな神々を祭り、ついに天下を平定することがおできになりました」 それから今上陛下(今の上皇陛下)まで百二十五代・・・、皇位は一貫して男系で継承され、今に至っています。それと共に天皇の「祈り」も一貫して継承されています。例えば、大化元年(六四五年)には、蘇我石川麻呂という人が、時の天皇(第三十六代・孝徳天皇)に、こんな進言をしています。
資料2を御覧ください。
資料2 蘇我石川麻呂の進言
「蘇我石川麻呂の大臣(おおおみ)、奏(もう)して曰(もう)さく『先づ以ちて天祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いわ)い鎮め、然る後に政事(まつりごと)を議(はか)るべし』とまをす」(『日本書紀』巻第二十五)
(松浦・訳)「蘇我石川麻呂の大臣が、『天皇は、まず天祇(あまつかみ・くにつかみ)を祭り鎮め、そのあと政治をすすめてください」と、進言した」 平安時代になると、皇居の清涼殿(天皇が起居される建物)の東南の隅に「石灰(いしばい)の壇」というものが設置されました。そして天皇は、毎朝、起床されるとお体を清められ、そこで「祈り」を捧げられるようになります。
東南の隅に設置されたのは、そこが、皇祖神である天照大神が祭られている伊勢神宮の方角にあたるからです。
「石灰の壇」というのは、土を盛りあげて漆喰で固められた場所で、それは天皇が大地の上で祈る、という太古以来の「祭り」の伝統を、たとえ多少形を変えても、守ろうとされていたことの証でしょう。
このような形の毎朝の「祈り」は、少なくとも第五十九代の宇多天皇(867-931)の頃には、はじまっていたようです。宇多天皇の日記には、資料3のようなことが書いてあります。
資料3 第五十九代・宇多天皇の御記
「我が国は神国なり。囚りて、毎朝、四方、大中小の天神地祇を敬拝す。敬拝の事、今より始めて、後、一日も怠りなしと云々」(『宇多天皇御記(寛平御記)』仁和四年十月十九日・『増補史料大成』第一巻)
(松浦・訳)「我が国は神国です。ですから毎朝、四方の大・中・小の天神地祇を拝むのです。このことは、今日からはじめて、以後、一日も怠りません」 それ以後、この毎朝の「祈り」は、御歴代の天皇に受け継がれます。平安、鎌倉、南北朝、室町、戦国、江戸と、一度も途絶えることがありませんでした。
明治以後は「毎朝御代拝」というかたちになり、現在も続いています。
今も毎朝、天皇の代理の侍従が「宮中三殿」にお参りしていますが、侍従がお祈りしている間は、天皇も、“おつつしみ”されているそうです。 (つづく)