4.天皇に「敬語」を使わない小学校教科書 「神仏」は「かたち」のないものであり、「祖霊」も、「かたち」のないものである。しかし、古来、日本人は、わが民族にはそういう「目に見えない世界」と「目に見える世界」の“仲取り持ち”をしてくださる方がいる・・・と信じてきた。
それが、天皇である。そのことについては、私は、再三書いてきたので、ここでは、もうくり返さない(拙著『日本の心に目覚める五つの話』〔平成二十二年・明成社〕などを参照のこと)。
一言で言えば、天皇とは、わが民族の「祭り主」である。初代の神武天皇以来、現在の第百二十五代の今上陛下にいたるまで、皇統は、一貫して男系で継承されてきている。
そして、その天皇の第一のお勤めとは、日々の「祈り」なのである。それでは、天皇は日々、何を祈っておられるのであろう。
それは、「国民の幸せ」である(この厳然たる事実を、たとえ一言でも、教育現場で教えるようになれば、日本は変わる・・・と、私は考えている)。
天皇とは、「目に見えない世界」と「目に見える世界」の“仲取り持ち”をしてくださる方なのであるから、日本人にとっては、この世で最も「上」の方ということになる。つまり、誰を差し置いても、まず「敬語」を使うべきは、まず天皇なのである。
その点、新しい「学習指導要領」に、「天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」(小学校・社会)とあるのは、まことに妥当な文言といえる。問題は、その「法規」が、全国の学校現場で守られているか・・・ということである。
たとえば、来年から使用される小学校の教科書には、今上陛下の写真をあげながら、その説明文では「天皇」と「呼び捨て」にしている教科書がほとんどである(拙稿「八月十五日は開放記念日―罷り通る自虐教科書」〔『正論』平成二十二年四月号〕)。
具体的に言えば、こうである。
「天皇は憲法で定められたこのような仕事以外にも、全国植樹祭への出席や災害で被災した地域への訪問などの、公的な仕事も行います」(教育出版『小学校社会6下』)。よく見ると、この一文には、一つも「敬語」が使われていないことに気づく。
先ほど私は、「神仏」への敬意と「老人への敬意」と「敬語」の三つは、同時に消えていきつつると書いた。しかし、そうであるならば、あるいは、こうも言えよう。
もしも学校現場で、天皇に対する「品のいい敬語」を取りもどすことができれば、「神仏」への敬意も「老人」への敬意も、同時によみがえるのではないか・・・と。
わが国は、「言霊の幸はふ国」(『万葉集』)なのであるから、そういう教育が行われれば、そういう現象も、きっと起こってくるにちがいないと、私は期待している。 (おわり)
3.敬語と“聖なるもの” そもそも「敬語」とは何か?。むろん、それについての学問的な議論は、古来より現代にいたるまで無数にあろうが、要するに「敬語」とは、読んで字のとおりで、「敬意をあらわすために使う言葉」である。
それでは・・・と考える。「敬意」というのは、何なのであろう?。
戦後教育では、「平等」ということが過度に強調され、その反動で「上下」という感覚が、徹底的に排除されてきた。その結果、教育現場で生じたものは何であろう?。
それは、たとえば、「友だち先生」であり、また教室から教壇の撤去である。「偉人伝」の排除も、その思想の流れにそったものであろう。
それ以外にも、さまざまな局面で、「上下」の感覚は・・・、あるいは「上下」の感覚を養うことにつながる可能性のあるものは、ことあるごとに消されてきたように思う。そして今、日本人は、その感覚を、ほとんど失ってしまった(大学の新入生が、教授に「タメ口」で話した、という話は、もう何年も前に聞いている)。
しかし、「上下」というのは、“現にあるもの”である。いくら言葉の上で否定してみたところで、その“実在”を消し去ることなど、できるものではない。
たとえば、今の若い人たちでも、一歳違いの人物のことを、「一こ、上・・・」とか、「一こ、下」などといってのける。それでは、なぜ、一年早く生まれただけの人物を「上」と言い、一年遅く生まれただけの人物を「下」と言うのであろうか。
そこに「敬語」というものの本質を知るヒントがある。たとえば、若者たちから見て、歳が「上」の人物が、どんどん上へと“上がって”いくと、どうなるのか・・・というと、むろん、老人になるのである。さて、それでもさらに上へ“上がって”いくと、どうなるのであろう。
「祖先」にいきつくのである。つまり、「一こ・・・上」の、最後に行き着く先は、「祖先の霊」ということになる。それは、もう「神仏」という“聖なるもの”の世界である。
昔は、「お年寄りには敬意を払う」ということが、日本人の常識であったが、たぶんその常識も、日本人の「神仏」に対する「敬意」とともにあったのであろう。
今、日本の一般家庭からは、神棚や仏壇、どんどん消えていきつつあるが、そうしてみると、「神仏」への敬意と「老人への敬意」と「敬語」が、同時に消えていきつつあるのは、残念ながら、必然的な現象であるというほかない。 (つづく)
2.懐かしいイギリスの少年 数年前、私の勤務する大学に、イギリスでは最も高名な大学から、留学生がやって来た。「神道」を学びに来たという。やがてイギリスに帰るという段になって、その学生から言われた言葉は、今でも私の記憶に強く残っている。そのころ、まだ二十歳代はじめの彼は、およそこういうことを言ったのである。
「私は、日本語は、まだ完璧ではないですが、敬語くらいはちゃんと使えます。日本人のイメージは親切・・・、そして目上の人に敬意をあらわす人たち・・・というものでした。もちろん、もともとは、そうだったのかもしれません。けれど、今はちがうようです。
よく日本人から『なぜ日本にいるの』と聞かれます。『神道の勉強をしています』と答えると、日本の人たちは、『シントウって何?』と聞いてきます。けれども、日本人に対して、外国人の私が神道の説明をするというのは、お互いに恥ずかしいことではないでしょうか。日本の若者たちは、日本が好きではなさそうです。でも、私は、日本が大好きです。」
正直、衝撃を受けた。わが大学は、「神道」を看板にかかげている全国でも数少ない大学である。そういう大学でも、彼から見れば、このありさまなのである。とすれば・・・、全国的には、どのようなことになっているのか、ゾッ・・・とした。もしかしたら、そう遠くない将来に日本人が「敬語」や「神道」を学ぶためにイギリスの彼のもとに行かなければならない時代が来るのであろうか。あるいは、日本人が日本への「愛」を学ぶために、イギリスの彼の行かなければならない時代が来るのであろうか。
そういえば私は、その少年を話している時、なぜか不思議な“懐かしさ”を感じていた覚えがある。その少年は、確かに「紅毛碧眼」であった。それなのに、なぜ懐かしいのか?。いぶかしい思いであったが、今になれば、その理由もわかる。それは、「品のいい敬語で語りかけてくれる学生に、久しぶりに会った」からであろう。たぶん私は、彼の姿の向こうに、「昭和三十年代以前の日本の少年」をみていたのであろう。(つづく)
(『教育再生 兵庫』・平成23年5月25日)
1.美しい『東京物語』の言葉 小津安二郎監督の映画『東京物語』は、日本映画史上の名作として名高い。公開されたのは、昭和二十七年である。ご覧になった方はご存知であろうが、そこには、当時の庶民の日常が、淡々と描かれている。したがって、この映画は、そのころの日本人の“ふつうの暮らし”を知るための、貴重な“史料”ともいえる。
作品自体の高い芸術性については、いまさら私が言い立てる必要もなあるまいから、ここでは、あまり人が言わないことで、その映画を見て私が感銘を受けたことを、一つ書いておきたいと思う。
それは、その映画の中の“言葉の美しさ”である。
とくに原節子が演じる「娘」が、笠智衆が演じる義理の「父」に語りかける言葉は、きわめて美しい。「なぜ美しいのだろう?」と考えているうちに、ハッ・・・と気づいた。
それが、すべて「品のいい敬語」だからである。つい数十年前まで、日本は庶民の家庭でも、「娘」は「父」に敬語で語りかけていたのだ。
これは、ある意味では、驚くべき事実であろうが、ふと立ち止って考えてみると、なんのことはない。今でも私の母は、父に対して、「敬語」を使っている。
父は平成十七年に八十五歳で死去したが、母は八十歳を越えた今も元気で、父の思い出を語る時は、やはり亡き父に対して「敬語」を使っているのである。そうやって振り返ってみると、それは、たしかに昔の日本では “どこにでも見られる風景” であったと得心できるのであるが、いつのまにか、それは “ほとんど見られない風景” になってしまった。 (つづく)
私たちの使命 そのような現状で私たちは何をすべきか?最後に「私たちの使命」についてお話します。一言で言えば「ご聖徳」をありがたがってばかりいて、それで終わっていていいのか、ということです。
幕末の志士たちは陛下の御心に応えて立ち上がり、日本の危機を救いました。日清、日露、大東亜戦争などで散華した英霊たちは、この世に二つとない自らの命をささげて、祖国日本をお護りくださいました。ありがたがって、それで終わりでは、私たちは先人に対してあまりに申し訳ないのではないか、と思うのです。
私は皆さんに「大きな事をしてください」などと、いうつもりはありませんし、その資格もありません。
けれども身近なところでいくらでも私たちは、両陛下の「楯」としてささやかな働きができるのではないでしょうか。
皇室をめぐることだけでも、様々な懸念が生じています。第一に「女系天皇」を唱える人々が再び息を吹き返してきている、ということです。
八木秀次さんが、平成二十一年十一月号の『正論』に書いているところによりますと、宮内庁は今年はじめから非公式に「女系天皇」容認のための勉強会を発足させ、「女系容認」の学者を呼んでいるそうです。「女系容認」の人々は「事務方の政府高官と宮内庁筋」と結託して、「陛下のありもしないご下問を持ち出し『大御心』を捏造」するというという、不敬きわまりないことまでしているようで、詳しくはその八木さんの文章をお読みください。
改めて申しあげますが、「女系天皇」は神武天皇以来、つまり建国以来、一貫して男系で継承されてきた皇室の伝統を破壊するものであり、「女性宮家」は、その「女系天皇」への道を開くものであり、いずれも絶対に容認できるものではありません。旧宮家の神武天皇の、男系男子の血統を引く方が皇籍に復帰していただき、そこにできれば、今の女王様が嫁いでいただく、これが伝統に即して皇位継承の危機を乗り切る唯一の方法です。
すでに継体天皇のときなどに、その例があります。もしも「女系天皇」が擁立されたら、それは「革命」を意味し「万世一系の皇統」が断絶したことを意味します。
こればかりではありません。岡田克也外務大臣は去る十月二十三日の閣僚懇談会で、国会開会式の陛下のお言葉について「陛下の思いが少しは入ったお言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」と、不敬極まりない発言をしています。さらに、ご即位二十年の十一月十二日を「臨時祝日」にすることも、民主党の反対で実現せず、さらにはこの年末にいたって、ご存知の通り、とんでもない不敬極まりない事件が起きています。
民主党の小沢一郎幹事長は、国会の延長を最小限にとどめて、百四十三名の民主党国会議員を中心とする総勢数百人の訪問団をひきつれて、中華人民共和国を訪問していますが、その頃平野官房長官は十二月七日と十日(小沢、胡錦濤会談の日)に、宮内庁に電話をかけ、胡錦濤国家主席の後継者と目される習近平が十四日から来日するのにあわせて天皇陛下との会見をセットせよ、と宮内庁に命令しています。
来日の五日まえです。
ふつう陛下との会見は少なくとも一ヶ月前に申し込むのがルールとなっているのに、権力に任せてまことに無礼と僭越のきわみの政府命令を民主党政権は出しています。
増長するのにもほどがあります。私は、はらわたが煮えくりかえりました。『週間文春』によると、両陛下は昭和天皇の御代から大切にされてきた、あらゆる国のその立場にある人に、公平にわけへだてなくお会いするということが、簡単にないがしろにされたと仰ったそうです。
これは明らかに政府が皇室を対シナ土下座外交に政治利用・・・というより私的利用しているとしか見えません。習近平は、ウイグル弾圧の中心人物。十二月十五日、その汚れた手で、陛下の手を握ったのです。十五日は、賢所の御神楽奉納の聖なる日でした。それにぶつけてきた、としか思えません。いったい民主党の首脳部の人々の心の中は本当に「日本人」なのでしょうか。彼らの心の中はもしかしたら、もうすっかり「外国人」なのではないでしょうか。
少なくとも私には彼らは平成の蘇我、平成の道鏡、平成の足利、平成のコミンテルンにしか見えません。一言で言えば民主党はもう明らかに「朝敵」になっている、といっていいと思います。
「ご聖徳」を仰ぐ心があるなら、次はそれにお応えしようとする気力をふり絞らなくてはなりません。一人一人の心にその気力が満ち、行動につながる時、ようやく日本の「再生」への重い歯車は、少しずつ回り始めるのではないかと思います。
歴史上のその具体例を挙げておきましょう。孝明天皇の御製と伝えられるものに、次のようなものがあります。
孝明天皇の御製
戈とりてまもれ宮人ここのへの みはしのさくら風そよぐなり
歌の意味はこうです。「さあ、宮中の者たちよ、武器をとって、守りをかためなさい。御所の端の桜には風が吹きつけ、今にも散りそうであるが、今の日本の状況は、それくらい危ういのであるから」。
おそらく、この御製への「返し歌」として、宮部鼎蔵の和歌は詠まれたのであろうと思います。宮部鼎蔵は熊本藩の志士です。幕末の志士・吉田松陰を知らない人はいないと思いますが、宮部鼎蔵はその親友で、のちに池田屋で新撰組に襲われ、四十四歳で殉難しています。
宮部鼎蔵の和歌はこうです
いざこども馬に鞍置け九重の みはしのさくらちらぬその間に
歌の意味はこうです。
「さあ子供たちよ(この「こども」というのは、天皇の「赤子」つまり「国民よ」という意味でしょう)出陣のときがきた。馬に鞍を置け。早くしないと、皇居の端の桜が、散ってしまうぞ。それからでは遅すぎるのだから」
人間は、いつの時代も公私ともにさまざまな問題や課題を抱えながら生きています。それは幕末の志士たちも同じです。
けれども多くの人々は何を最優先にしなければならないのか、ということを忘れて、うかうかと人生を過ごしてしまいがちです。志士たちは、自分は何を最優先にすべきか、と考えてその一点のために自らの人生を燃やしつくしました。
私たちも、公私共に多忙な毎日ですが、時に心を沈めて「私は私の残りの人生で、何を最優先に実現したいのか、そのためには明日からどう生きるのか・・・」としばし立ち止まってゆっくり考えてみることも必要なのではないでしょうか。
本日のお話が、皆さんにとってその「きっかけ」となれば幸いです。
ご静聴ありがとうございました。 (おわり)
# by matsuura_mn | 2011-07-06 11:32 |
講演記録
「醜の御盾」として なぜ今上陛下は、昭和六十一年という御代替わりが近いことが予感される時にあって、あえて「後奈良天皇」のお話をされたのか?
それは多分「あるいは自分も、大嘗祭を行うことができないかもしれない。しかし、それでも私は後奈良天皇のように、民を思う心は失わないつもりである」という、悲壮なご覚悟を示されたものだったのではないでしょうか。
結果的に大嘗祭は民間の心あ る人々の熱烈な運動の甲斐もあって、辛うじて行うことができ、そのことを陛下もお喜びであったといいます。
しかしその前の昭和天皇のお葬式である、「葬場殿の儀」の時は、鳥居と真榊が設置されたものの、国家儀式の「大葬の礼」では、左翼政党が「憲法」に抵触すると騒ぐので、その時だけ鳥居が撤去される実にみっともない無礼な儀式になってしまいまして、私などは記憶に新しいとこです。
沖縄でのテロ事件では身体を張って先の大戦の悲しみを背負う県民の心の傷を癒され、大嘗祭では左翼勢力の妨害に伝統を守ろうとされつつ、それをできないことも覚悟されたのです。これらの「戦い」はほんの一端にすぎませんが、私たちは改めて陛下が、実は「戦後」という時代とずっと戦ってこられたことを、深く心に刻んでおかなくてはならないと思います。
もっとも「戦い」続けていらっしゃるのは皇后陛下も同じです。皇后陛下はマスコミの根も葉もない残酷な「皇后様バッシング」も受け続けられ、ご心労のあまり、平成五年のお誕生日、十月二十日の朝、突然お倒れになられています。
ちなみにその「皇后様バッシング」をリードしていた雑誌が、そのころの『週間文春』ですが、その背景について、私の友人の八木秀次さんはこう語っています。
『WILL』は創刊当初から、加瀬英明さん(外交評論家)の皇太子殿下批判などを 展開してきた雑誌です。花田紀凱編集長は『週間文春』(文藝春秋)編集長時代、両 陛下の批判を繰り広げ、結果として皇后陛下を失語症に追い込んだ人です。今また 皇太子殿下に対して、同じ轍を踏まなければよいのですが。 (竹田恒泰・八木秀次 『皇統保守』[平成二十二年PHP研究所])
かつて『週刊文春』で皇后様バッシングを続けていた編集長と、同じ人が今度は違う雑誌の編集長となり、近年、西尾幹二氏、橋本明氏などの筆を通じて「雅子様バッシング」ひいては「皇太子様バッシング」を繰り返していたことは、皆様ご存知のとおりです。そのことについて私は『正論』の本年の十月号で徹底的にかなり厳しく批判させていただきました。
なぜか、それ以後ピタリとその類の記事がその雑誌から消えました。私としては懸命に書いた甲斐もあったというもので、喜ばしい限りです。しかしかつての「皇后様バッシング」もそれはひどいものでした。
それがとうとう皇后陛下のお声を奪ったのです。今から考えると、なぜあれだけ徳の高い皇后陛下が、あれだけひどい誹謗中傷にさらされなければならなかったのか、と不思議に思う方もいるでしょうが、当時はそれを阻止しようとする言論は全くではないですが、あまりなかったのです。
お気の毒に皇后陛下は、翌平成六年になってもお声が戻りませんでしたが、その年の二月十二日、硫黄島の慰霊の旅の途中、硫黄島・基地庁舎の中で戦没者の遺族を御接見されている途中、東京都遺族連合会会長に、突如お声を発されます。こういうお言葉でした。
「ご遺族の方たちは、みなさん、お元気でお過ごしですか」
それがご回復後の第一声でした。場所が場所で、場面が場面です。
硫黄島の灼熱地獄のなか、勇敢に戦い散華していった英霊たちは、皇后様の慰霊で救われたのではないでしょうか。魂を救う者のみが魂を救われる、ということがここで起こったのではないでしょうか。
これはなんとも神秘的で、劇的な出来事というほかありません。
ともあれ、天皇陛下も皇后陛下も「戦後」という時代と立ち向かい、傷つきながらも堂々と戦っていらっしゃる。ご即位以来二十年間、どれほどお苦しみとご心労を乗り越えていらっしゃったか、私どもには想像もつきません。
私たちも国民の一人として、せめて何らかのお力になるべきでしょう。陛下にまるで石を投げつけるような人々から私自身はたとえ貧弱なものであっても「盾」になりたい、と思っています。
『万葉集』にある「今日よりは顧みなくて大君の醜の御盾と出で立つ我は」のあの「盾」です。そのような思いで私はこの十年ほど、ささやかなながらも、左翼教師集団・日教組と、あるいは易姓革命・共産党革命を導くことになる「女系天皇」を唱える、いわば亡国勢力と言論で必死の戦いを続けて参りました。
しかし、私個人としては、それなりに多少の敵は倒してきたつもりですが、日本全体からすれば残念ながらあまりにも微力です。
そして日本は今、ずるずると崩壊への下り坂を、特に民主党政権になってからは速度を増しつつ転がり落ち始めています。
(つづく)
# by matsuura_mn | 2011-05-11 21:23 |
講演記録
後奈良天皇のごとく さて、もう一つ、陛下の「戦い」を挙げましょう。御代替わりの「大嘗祭」についてです。
昭和五十四年四月六日、「元号法」が成立した月ですが、おそらくそれで危機感にかられた左翼陣営は、天皇の御代替わりに行われる、天皇によって一世一代の、最も重要な祭りである「大嘗祭」を阻止しようと始めます。
昭和五十四年四月十七日、衆議院内閣委員会で社会党の上田卓三氏は「旧皇室典範に記されているような踐祚、大嘗祭といった儀礼はそのような扱いになるのか」と質問します。それに対して内閣法制局長官・真田秀夫氏はなんとこういう答弁をするのです。
衆議院内閣委員会における内閣法制局長官真田秀夫氏の答弁
「大嘗祭なんというのは、おそらく国事行為としても無理なのじゃないかと思う」
「憲法二十条第三項の規定がございますので、そういう神式のもとにおいて国が大嘗祭という儀式を行うこと は許されないというふうに考えております」
政府、官僚による皇室伝統の蹂躙は、すでに三十年前から強引に進められているのです。私が「戦後という時代は、戦国時代以上に厳しい時代」と書いていることの具体的な意味が、この一事からも十分ご理解いただける思います。
この頃から、どうやら陛下は「自分は大嘗祭を挙行できないかもしれない」という憂いを深くされていったようです。古来、大嘗祭を挙行できない天皇は「半皇」、つまり「半分の天皇」と呼ばれています。
つまり大嘗祭を挙行していない天皇は、天皇の資格に欠ける、とまでいわれているものでありまして、大嘗祭とは、それほど重要な儀式なのです。
それから七年後の昭和六十一年五月二十六日、『読売新聞』に今上陛下のこういうお言葉が掲載されています。
今上陛下(当時・皇太子)のお言葉
天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的な立場に立っています。
このことは疫病の流行や飢饉に当たって、民生の安定を記念する嵯峨天皇以来の、天皇の写経の精神や また『朕、民の父母と為りて徳覆うこと能ず。甚だ自ら痛む』という後奈良天皇の写経の奥書などによっても 表されていると思います」(昭和六十一年五月二十六日)
ここに見える第五十二代・嵯峨天皇は、平安時代の漢詩文や書道にすぐれた天皇として知られる方ですが、問題は第百五代・後奈良天皇です。後奈良天皇は戦国時代という皇室衰微の時代の天皇でいらっしゃいます。
この時代、皇室の経済的困窮は、相当なものであったと伝えられています。それでも、後奈良天皇は国民が疫病に苦しんでいるのに何も出来ない自分を責められ、「般若心経」を書写され、全国各地の寺社に、ひそかに奉納されています。
その「奥書」つまり、書写したあとに書いてある言葉は有名です。現代語訳するとこうなります・
後奈良天皇奉納『般若心経』の奥書(天文九年六月十七日)
今年は天下に疫病がはやり、多くの民が死に瀕しています。私の民の父母としての徳が足りないからである と思われ、とてもつらい思いです。ですから私は『般若心経』を金字で写し、義堯僧正の手によって醍醐寺三法院に納めます。心からこれが疫病の妙薬になりますよう、祈ってやみません (松浦訳・『宸翰栄華』)
「民の父母として、徳が足りない」というそのお言葉は国民の一人として今、それを読む私たちでさえ、まことに恐懼の極みです。このお言葉と、後奈良天皇の行いには、ご歴代の天皇の国民に対する「無償の愛」がつまり、「見返りを求めない愛」がまことに明瞭に結晶化していると思います。
まことに天皇とは「民の父母」であり、そのご聖徳に国民はひたすら感激するしかありませんが、大切なのはこの後奈良天皇とは、どういうご生涯を送られた方であったか、ということです。
実は大嘗祭を行うことができないまま崩御された天皇だったのです。
ご生前、伊勢神宮に使いを遣わし大嘗祭を行えないことを詫びていらっしゃいます。なぜ大嘗祭が行えないのか、そのことについて天皇ご自身のお書きになったものが残っていますが、それを見ますと次のような一文が見えます。
公道行われず。聖賢有徳の人なく、下克上の心盛りにして暴悪の凶賊所をえたり
(天文十四年八月・後奈良天皇の宸筆宣命)
「世の中に正しい道が行われず、優れた人もおらず、下克上の心が蔓延し、悪くて乱暴な者たちがほしいまま振舞っている」というような意味ですが、こと皇室をめぐる状況から見れば、これは何も戦国時代だけの話ではなく、「戦後」という今の時代にもそっくりあてはまるのではないでしょうか。 (つづく)
# by matsuura_mn | 2011-02-21 22:57 |
講演記録
今上陛下の“戦い” 今上陛下は、大東亜戦争の戦闘終結の年、昭和二十年に「新日本の建設」という作文をお書きになり、それが公にされています。時に陛下は学習院初等科六年生、十一歳であらせられました。その作文には次のような一節があります。
今上陛下、学習院初等科六年生(十一歳)の作文「新日本の建設」
「今は日本のどん底です。それに敵がどんなことをいってくるかわかりません。これからは苦しいこと、つらい事が、どの位あるかわかりません。 どんなに苦しくなっても、このどん底からはひ上がらなければなりません。・・・
今までは勝ち抜くための勉強、運動をしてきましたが、今度からは皇后陛下の御歌のように、次の世を背負って新日本建設に進まなければなりません。それも皆、私の双肩にかかっているのです。
それには、先生方、傳育官のいふ事を、よく聞いて実行し、どんな苦しさにも、たへしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、もつともつとしっかりして、明治天皇のやうに皆から仰がれるようになって、日本を導いていかねばならないと思ひます」 (木下道雄『側近日誌』)
ここで注目すべきは「それも皆、私の双肩にかかっているのです」「明治天皇のやうに皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならない」という箇所です。明らかに、もうこの時点で陛下は「戦後」という時代に対する「戦い」の覚悟を、そしてその「戦い」の先頭にまず自らが立つというご決意を固めていらっしゃることがうかがわれます。
「戦後」という時代の現実は、まるでそのご覚悟を試すかのように、厳しいものでした。占領軍は皇室を支える法的仕組み、制度的な仕組み、経済的な仕組み、教育的な仕組みなどを、こぞって解体し、独立後もその占領軍がつくった枠組みを死守する勢力が日本の中枢を占め、皇室解体をもくろむ政治家、言論人、教育者、官僚、学者司法関係者などが、まるでいくつもの連合艦隊を組んで襲い続けているかのような時代だからです。
それらの点については、先の『日本人として知っておきたい皇室のこと』という本のなかで江崎道朗さんが「皇室の伝統を受け継がれる天皇陛下―占領・戦後体制という逆境のなかで」という文章で詳しく書かれているのでそれを熟読してほしいのですが、ここで私はその両陛下の乗り越えてこられた「逆境」について、今上陛下について二つの出来事を皇后陛下について一つの出来事をあげておきたいと思います。
まず、皇太子時代の昭和五十年七月、四十二歳の時、初めての沖縄ご訪問での出来事です。
「ひめゆりの塔」にご参拝になった折、左翼過激派が火炎瓶を投げつけるという「大逆事件」が発生しました。両陛下はそのあとも何事もなかったように慰問を続けられたのですが、その事件の瞬間の映像は、いろいろと残っているようで、かつて私がテレビで見た映像では、陛下はとっさにわが身を乗り出して皇后様をかばっていらっしゃいました。私はそれを見てヤマトタケルの命とオトタチバナ姫の伝承を思い出しました。
『古事記』によりますと、ヤマトタケルの命が、相模の国の平定に向かわれたとき、地元の豪族から騙されて、草原に入ったところで、枯れ草に火をつけられて炎に包囲され、危うく焼き殺されそうになったことがあります。けれどもその炎の中でミコトは、かたわらのオトタチバナ姫をかえりみて、やさしい言葉をおかけになったのです。
後に浦賀水道で海が荒れ狂った時、オトタチバナ姫は、ミコトに使命を果たしてもらおうと、自ら海に身を投げて、海の神の怒りを鎮めますが、そのオトタチバナ姫はこういう和歌を詠んでいます。
さめさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも
(松浦訳 「あなたは、あの相模の野で、燃えさかる炎の中に立っていたときも、わたしのことを気づかって、お声をかけてくださいましたね」)
皇后陛下が少女の頃、父から送られた日本の神話の本を読んで、この伝承に深く心を動かされ、「愛と犠牲は一つのもの」と感じられた、ということは、のちに皇后陛下ご自身が語っていらっしゃいます。「愛と犠牲は一つのもの」まさに深く、高く、厳しいお言葉です。
そして、まさしくヤマトタケルの命とオトタチバナ姫の伝承と、同じようなことが二千年ほどの時をへだてて、昭和五十年の沖縄で起こったのです。
あの一瞬の映像を見た私は「ああ・・・」と思いました。陛下は男らしく、勇敢でいらっしゃった。そして愛する女性を、身を挺して守ろうとされていた。ヤマトタケルの命をまさしく「血がつながっている方なのだなあ」と感じずにはいられませんでした。
もっとも、これは昔の日本の男ならごく当たり前の行動なのでしょう。しかし、今はめずらしい行動です。
この二十年ほど、「ジェンダーフリー」教育が、徹底的にほどこされ、日本の男はみんな「草食系」になってしまいました。平成十二年五月、十七歳の少年による佐賀のバスジャック事件の時は、女、子供を残して、男がわれ先に逃げ出そうとする、無様な姿をさらしましたが、今の日本の男はいざとなったら、真っ先に逃げ出しますし、それを恥ずかしいとも思わなくなりました。
「女・子供」を守らないというだけでも情けないですが、それですむならまだましです。今はむしろ自らの本能的な攻撃性を、強いものにでなく、弱いものに「女・子供」に対して、むき出しにする卑怯きわまる男も増えています。
今は、そういう犯罪が連日起こっているでしょう。「男らしさ」「女らしさ」は、日本人が大切に守ってきた、ガラス細工のように繊細な「文化」で、日本人が人間らしく生きていくうえで、これ以上大切にしなければならないものは無いほどです。
特に「男らしさ」という長い伝統によって形成された「道徳」が破壊されると、結果的に男性の本能的な攻撃性が弱いもの、女・子供・老人などに向かいます。昔はそれを卑怯という言葉で戒めたのです。
そうしてみると「ジェンダーフリー」の浸透で、結果的に最も不幸になったのは、女性や子供や老人、つまり「弱者」であるということになります。(つづく)
# by matsuura_mn | 2011-02-05 22:02 |
講演記録
「仁者に敵なし」 話を、去る十一月十二日の、東京の皇居前広場での両陛下の御尊顔に戻します。なぜ、両陛下はあれほど「我が御心すがすがし」という、ご表情でいらっしゃったのか、ということです。
それは、やはり長い“戦い”を正々堂々と戦い抜いてこられたからではないか、と思うのです。
昨年私は『日本人として知っておきたい皇室のこと』(PHP研究所)という本の中で「日本は天皇の“祈り”に護られている」という一文を書きましたが、その中でこんなことを書いています。
“占領遺制”という毒素そのものは、占領中から何一つ除去されていません。したがって、あるいは皇室にとって戦後という時代は、戦国時代以上に厳しい時代なのかもしれません。そうであるにもかかわらず、私たちが戦後六十年以上を経た今もなお“御聖徳”をありがたく仰ぐことができるのは、なぜでしょう?それは、ひとえに歴代天皇の並外れた御力によって、その“毒素”が“解毒”され続けてきたからなのではなおでしょうか。 私は皇室にとって今という時代は、ほんとうに「戦国時代以上」に過酷な時代だと思っています。
例えば、私たちがご即位二十年を寿いでいた時、マスコミはそれについてどのような報道をしていたか、ご存知ですか?
皇居前広場で行われた国民祭典の翌朝のNHKニュースなど、ひどいというより、犯罪的とさえいってよい内容でした。皇室に対する無礼きわまりない世論調査をして、その結果を延々とやっていたのです。
「天皇陛下が憲法で定められた象徴としての役割を果たしていると思うかと尋ねたところ、『十分に果たしている』が四十八%・・・」などとやっているのです。
皇室は政党ではありません。支持率でどうこうしてよいものではないし、またしてはいけないものです。
また、これは女性週間誌に載っていたことですが、どこかのマスコミが「将来の天皇は、愛子様がいいと思うか、悠仁様がいいと思うか」などというアンケートをやっていて、それを皇后様がご覧になって「なんということを」と、つぶやかれた、という話が伝えられています。
皇室は芸能人ではありません。
まことに無礼千万です。
たとえば、ある家の後継ぎについて、長女がいいか、長男がいいかなどと、世論調査をやって、それをマスコミが報道したら、これは明らかにプライバシーの侵害にあたるでしょうが、庶民の家にさえやってはいけないような無礼ごとを、今のマスコミは皇室に対してするのです。
今のマスコミが、ひいては戦後社会がどれだけ皇室に無礼をはたらいているのか、例をあげていけばきりがありません。
それもこれも、戦後の反天皇教育が六十年以上も続いた結果です。
しかし、両陛下はそんな時代にもひたすら耐え、耐えるというだけでなく、むしろその無礼極まりない国民に対しても、限りない愛情をそそいでこられました。考えてみれば、すごいことです。
それに比べてみると、私たちは甘えているのではないでしょうか。今の時代と戦い続けているうち、ともすれば私たちは「自分たちのことを、みんな解ってくれない」などとグチをこぼしがちです。しかし、両陛下は自分たちに対して無礼な人々、攻撃的な人々にグチをこぼすこともされず。それどころか、これまでひたすら惜しみなく愛を注いでこられたのです。
私たちには、とてもできないことです。そのような両陛下のご姿勢は、まさに「戦い」と表現せざるをえません。私たちの苦労など、両陛下のそのようなご苦労に比べたら万分の一にすぎません。
儒教の有名な経典の一つに『孟子』というものがあります。吉田松陰などが愛読していたところで知られています。
そこに、こういう言葉があります。そこに、こういう言葉があります。私は、両陛下のお姿を拝見するたびに、この言葉を思い出すのですが、それは次のとおりごく短い言葉です
仁者に敵なし
「仁」というのは、現代の言葉でいえば、「愛」にあたります。「愛あるものには、そもそも敵というものが存在しない」、つまり愛を以って、万人に対する者には敵がいない、というような意味です。
ここにある「仁」という文字、これは天皇のお名前に、あるいは男子の皇族方のお名前にしばしば使われている文字であることは、皆さんご存知の通りです。両陛下はこの言葉「仁者に敵なし」という言葉を、本当に体言されて、と私などはしばしば痛感しています。
それでは、その陛下の「戦い」はいつ始まったのでしょう。
私はすでに少年時代からはじまっていたのではないか、と思っています。 (つづく)
# by matsuura_mn | 2010-11-16 19:39 |
講演記録
子供たちに残す最大の遺産 先ほど私は、教師は「まず自分が『清浄』で『すがすがし』という境地でいたいものです」と申しあげました。けれど、今の教育現場はどうですか?その逆でしょう。
それはなぜですか?教師が勇気を持って戦っていないからではないでしょうか?教育の世界ほど、「悪しき仲良し主義」「みんないっしょ主義」のようなものが、蔓延しているところはありません。
それは、もう教師志望の大学生の時代から、そういう全体主義的な空気に慣らされて、しつけられてしまいます。「悪しき仲良し主義」「みんないっしょ主義」とは、要するにふつうの言葉でいえば、「事大主義」「事なかれ主義」「長いものには巻かれろ主義」です。
それはやがては、教育現場び根深い「癒着」と「馴れ合い」を生みます。私は長年、左翼教師集団と戦って参りましたが、なぜその強い組織力は、今も維持されているのか、と考えた時、その根底にあるのは、じつは高尚な思想などではないと、近頃は思っています。
そこにあるのは「悪しき仲良し主義」「みんないっしょ主義」、それに基ずく「癒着」と「馴れ合い」だと見ています。それが全国の教育現場の反天皇全体主義、反日全体主義のもっとも根底にあって、その巨大な悪を支えている巨悪ではないかと私はみています。
なぜそれを突き崩せないのか?それは、一人ひとりの教師に「勇気」がないからです。
人には誰しも「保身」という感情があります。
それは当然あってよいのですが、あまりに強すぎるとどうしても「悪しき仲良し主義」「みんないっしょ主義」の包囲網から脱出できない。ずるずると悪の一味になってしまう。はじめにそうなってしまうと、もう今度はそんなふうに「妥協して生きている自分」を正当化し、守ろうとするようになる。
やがて懸命に戦っている人を応援するどころか、嫉妬し始め、さらには妨害さえするようになる。最悪です。そうなったら、とても「我が御心すがすがし」という境地に到達するどころではないでしょう。
一度「戦い」から逃げると、「逃げる」癖がつき、だんだんと人相が悪くなっていきます。ひいては心を病むようにさえなってしまうのではないのでしょうか。気を遣いまくって「心の病」になるくらいなら、リスクを背負って「戦う」ほうが、精神衛生上、何倍もいいと思います。
勝っても負けても、「戦い」から逃げ続けている人よりずっといい人相になるはずです。
世間には「きれいごと」ばかりならべて、要するに教育を「メシを食う手段」にしかしていない教師がたくさんいます。その一方で、理想を見失わず、本気で「戦い」つづけている教師もいます。
子供たちはそれを敏感に感じとります。そういう教師は同僚からは、あまり評判がよくないかもしれません。職員室では孤立しがちになるかもしれません。
「いい格好しやがって」などという、醜い嫉妬心を、たぶん教師という人種ほど強く持っている人々はいないでしょう。けれども大丈夫です。
必ず子供たちが味方になります。「子供たちが信頼してくれる」ということほど、教師にとって強い心の支えはないはずです。
何よりも、理想に向かって戦う姿を、子供たちに見せ続けることほど、素晴らしい教育はありません。教育技術も、知識も言葉も越えて大人が子供たちに残してやれる最大の遺産は、実は「勇気をもって生きた大人の姿」だと思います。(つづく)
# by matsuura_mn | 2010-09-30 22:20 |
講演記録